H・シュペーマンによるH・ドリーシュのの評価

H.Driesch(1867~1940)    H.Spemann(1869~1941)

現在、われわれは、ハンス・ドリーシュ(1867~1941)という、20世紀前半の知的世界に決して小さくはない影響を与えた、実験生物学出身のドイツ人哲学者について、あまりにも知らなすぎる。

ドリーシュは、「発生力学 Entwickelungsmechanik」という名の実験発生学の形成期から、この新しい学問と伴走し、その哲学に由来する機械論的説明に同意できず、1899年の論文でようやく、反機械論という意味での生気論の立場をとることを宣言した。この生気論的な現象を説明する自然の要素として、エンテレヒー概念を、1904年の著書『自然概念と自然判断』の末尾で提案した。彼は、1907~1908年にスコットランドのアバデイーン大学で、年10回の「有機体の科学と哲学」という連続講義を行い、この内容は英語で出版された。さらに1909年には、これをドイツ語で全面的に書き改めた『有機体の哲学』(全2巻)が出され、これは出版としても成功を収めた。彼はこの時期に哲学に転進した。1921年のライプチヒ大学の哲学教授の招聘委員会は、激論の末、ドリーシュと決定した。この候補者名簿には、カッシーラ、フッサールなど錚々たる名前が並んでおり、ドリーシュは巨匠があい並ぶドイツ哲学界での成功者となった。実際、彼の講義は絶大な人気があり、講義室は聴講生であふれ返った。彼は、1923年の世界一周旅行の折に日本を訪れて各地を旅行し、三崎の東大臨海研究所にも行っている。

ところが、現在の彼に対する評価は、非科学的な主張を振りまいた亡者という極端に否定的なものしかない。その最大の要因は、1930年以降、活動を開始した論理実証主義が、ドリーシュのエンテレヒー概念を非科学の典型として繰り返し力説したからである。この時代、ライプチヒ大学の哲学正教授の権威は絶大であり、形成期の論理実証主義が激しい言葉で批判をしたのは、いまとなっては理解できなくもない。ところが、第二次世界大戦後は、ドリーシュの思想はナチスの全体主義思想を支えたものとして完全に誤解され、彼の著作すべては破産財の扱いになった。だがドリーシュは、早くからナチスの批判者であり、ナチスが彼の思想を取り込もうとしたが断固、拒否し続けた。ナチス政権成立後に、非人種的理由で大学を追われた最初の知識人の一人が彼であった。第二次大戦後の科学啓蒙運動は実に残酷な面を持っていたのである。

ここに訳出したのは、『発生力学雑誌』のドリーシュの還暦記念号の巻頭に、オーガナイザーの提唱と実証でノーベル医学生理学賞を受賞することになる、H・シュペーマンが書いた祝辞である。1927~28年は、ドリーシュ哲学の人気の絶頂期であり、シュペーマンが、いま有名な哲学者は、かつてわれわれの仲間であったことを思い起こそう、と言っているのがおもしろい。

話はぜんせん違うが、ドリーシュと南方熊楠と生没年(1867~1941)がまったく同じである。

 

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ハンス・ドリーシュの還暦に向けて (H・ドリーシュ還暦記念号・巻頭言。W.Roux’ Archiv für Entwickelungsmechanik, Bd,111, p.1-2, 1927)

今日、哲学者の大きな輪の中で、H・ドリーシュが広く尊敬されている事実から、彼はかつて、われわれ生物学者の世界の出身者であることを思い起こすべきであろう。生物学的な哲学の学派へと発展していったこの事態からは、哲学的な才能をもつ生物学者が求められている。
ドリーシュの存在と仕事は、偉大な道程を描いている。初め、ヘッケル(Haeckel)の学徒として出発し、その後、そこから決別して、鋭い批判者の側に回った。ヴィガンド(Wigand)やG・ヴォルフ(Wolff)の成果が、こういう回答への刺激となった。その後、十年ほどの間、W・ルー(Roux)の中に研究方針を見出した。ドリーシュとしては、これに対する本質的な敵対者としてだが、その研究成果は膨大で、速やかで考えうる限りの明瞭さをもっており、この学派への広範な貢献者となった。この時代はずっと、この発生力学雑誌の変わらぬ協力者であった。ドリーシュの寄与は、問題設定と方法論の面で非常に独創的であり、その研究結果は斬新であり、かつ概念形成は鋭く明確で、ルーに並ぶ発生力学の共同設立者の位置にじゅうぶん値する。
実験発生学のためにドリーシュが築きあげた多くのものの中から、もっとも重要と思われるものを一つ挙げるとすれば、それは、調和等能系(harmonische-äquipotentiellen System)という中心概念である。この系から発展した一部として、同様なものに予定可能態(prospektiv Potenz)がある。これは、発生過程で起こりうること[の全体]である。それは、正常な発生過程で生じるであろう状況であり、予定運命(prospektive Bedeutung)を意味している。これらの系は、一定の時点を過ぎると固有の関係へと調和的に調整する、謎めいた能力をもっている。それらは、ばらばらにすると小さくなり、繋ぎあわせると逆に大きくなり、その一部分を伸ばすと変形する。つまりそれらは、小さな部分系に分かれて、発生の最終目標へと到達するのである。
このような考え方に批判を向けると時期では、まだないように見える。ドリーシュ自身も同様に考えているように、これらの現実の基盤は、さらに研究が重ねられることによって、また別の側面が現れてくるであろう。そして、こういう本質は維持されるべきであろう。ドリーシュはそこから離れてしまったが、調和等能系の概念はいまも同様に、天才的で異常なほど生産的な概念であり、広大でその結論になお届いていない。この系の現存在(Vorhandensein)は、よく知られているようにドリーシュにとっては、生気論の主要な根拠を成している。真の物質としての「機械 Maschine」は、非物質的な原理であるこの現象場(Erscheinungsort)を、概念化できないのであり、彼は、それをアリストテレスに則って、エンテレヒー(Entelechie)と名づけた。
このことはドリーシュ哲学が懐胎された出発地である。彼の個人的な強烈な研究への欲求は、これの確実な影響を与え、われわれ生物学者には貴重な遺産を遺した。ウイルヘルム・ルーの体系志向の精神によって、われわれが新しい研究領域を発見し、その境界にたどり着いたとき、ドリーシュによる問題設定は、その地平を拡大するのに絶対に不可欠なものであった。
旧い研究の同志と多くの若者がここに集い、ハンス・ドリーシュにわれわれの進歩をささげたい。彼はそこに、自身が青年時代に成し遂げたものと、おそらく新しいものを見つけ、そしてわれわれに来るべきものをさらに示してくれるだろう。
H・シュペーマン

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L・ボルツマンの講演:力学的熱理論としての熱力学第二法則(1886年)

L・ボルツマン(Ludwig Boltzmann:1844-1906)によるこの講演(原題は「Der zweite Hauptsatz der mechanischen Wärmetheorie」で、ボルツマン著『Populäre Schriften』,1905, p.25-50)は、1886年5月29日に、カイザー・アカデミーで行われたものである。

原子/分子仮説に立って、熱力学第二法則を直観的に考察した講演である。十九世紀ドイツの自然科学者にとって、“自然哲学”的な思索をたいへん重要なものであった。この講演は、素朴で時には武骨とも見える表現のところもあるが、十九世紀末における分子観が、素直に反映されている。現在の科学者の目には、思弁的で無意味な論考に映ってしまうが、バイオエピステモロジーの視点からすると、理想気体を前提することが当然視されていることはきわめて重要である。

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皆さまお集まりのこの会議では、私に自由な機会が与えられ、私が科学的訓練の面でこの会議にお世話になったこともあり、私が引き受けるべき名誉ある困難な義務を承知しております。ただ、それを引き受けるには、ためらいもあります。そこで、私の課題の選択について謝罪を述べることを、ご容赦いただきたいと思う。このような事情は、哲学者や歴史家であれば出版を考える類のものである。しかし自然科学の場合、いわゆる哲学的・形而上学的な一般的課題については、講演する傾向がある。今日、私はこの慣習に従っているが、現在の自然科学が投げかける多くの特殊な課題に対して、この一般的な課題が大して意味がないとか重要でないとか、という疑いをもっているわけではありません。ただし、これまでのその扱われ方の種類と様式に関して、私は多く機会に、それらは誤っているように見えると明言してきた。つまり、独特な個別領域における課題は多くの場合、大いにやりがいがある一方で、一般的な問題では、その成果に張りつめた達成感が伴わないことが多いのである。前者の場合、主要な論争では、主な事実に関して一致が確保されているのが普通であるのに対して、後者の領域では、激しく対立する意見の主張者の間で、多くの場合、まったくそういうことになってはいない。個別問題では意見が一致し、いっしょに研究ができるのであるが・・・。
自然科学においては、証明された真実ほど、直線的で簡潔な表現のものはない。しかしたとえば、司令官が敵の町を攻略しようと考えたとき、彼は、地図上の最短の道をとるわけではない。むしろ勝つためには重要な戦略として、多様で不自然な回り道をとり、道からかなり離れた村々を襲う。難攻不落の場所は武力で封鎖してしまう。一方、自然科学者はそのようなことは考えない。彼らに重要なのは、どの問題かではなく、どれが即刻解けるものかが重要であり、小さくても確実な進歩が得られるものに向かう。錬金術師が、もっぱら賢者の石を捜し、金作りの技術を手に入れようとしているかぎり、その試みにはまったく成果はない。表面的に価値のない問題を取り除くことが、化学を創造へ導く。自然科学がその視野から、巨大な一般的問題への関心を失ってしまえば、素晴らしい成果に連なることはない。その一方で、個別な特殊領域の藪の中で、骨の折れる鍵に出くわし、それによって隙間が突然、開かれ、それまで予想もしなかった光景が全体に展開する。
ガリレオが作成した落下側溝や、ステビンの鎖は、力学が、物体の外的関係だけではなく、物質と力の本質へ浸透する、強力な支点となりうる。また、化学者が日々発見する注目すべき事実には、原子論(Atomismus)に関する多くの新しい証拠が見られる。ジュールの試みは、仕事・動因・運動エネルギーの本質に関する古典的な論争に、最終的な決着をもたらした。そして、ここで言う巨大問題とは、次のようなものである。われわれはどこから来たのか? われわれはどこへ行くのか? 過去、千年にわたって、われわれの精神的英知はこれまでに変わったのか、これからも変わるのか、について天才たちが議論してきた。いくつかの局面で、明白な本質的進歩があったのかどうか、その結果について私は知らない。そこようなことについて、今世紀(19世紀)には、ハトや他の家畜の飼育、飛行したり遊泳する動物の色調についての、慎重な研究や比較研究によって、毒をもたない動物の目を見張るような擬態に関する研究、虫媒花の花の形についての骨の折れる比較研究などによって、確かな事実が集まった。こうして、それまであまり意味のないように見えていた地味な研究領域が、本質的な成果を手に入れることができ、このことがまた、科学史上比類のない成果を迎えたことで、形而上学の領域に兵を進める確かな作戦基地になりうるのである。
シラーは、この時代の研究についてこう言っている。「問うべき真理は、網や棒によって駆り出されるのではない。精神の進歩とともに、ゆっくりと現れ出るのだ」。もし彼が、現在の物理・化学の武器庫を一瞥したとしたら、カオス状態にある道具箱をもって真理を捕捉できるのか、どれほど深刻に受け取るのだろう? 併せて、今日の鉱物学者・植物学者・動物学者・生理学者らの働く場所はどう映るのだろう? 私は、それぞれの道具に、新しい様式の自然の力を生み出すための単なる装置ではないものを見出すのであり、深い畏敬の念を抱く。もっと言うと、私はそこに、モノの存在の秘密を暴くための、真の装置を見出す。そこには、巨大なカーテンの向こうに隠れているどんな絵を評価するのかという、画家が直面する類の問題が、たくさん横たわっている。専門家は求められると、自身の技術を誤魔化すために、カーテンを説明する絵を指して、「カーテンそれ自身が一つの絵だ」と答えるものなのだ。もしかしたら、存在の謎へと誘惑するベールを、われわれはカーテンとして描いているかも知れない?
自然科学の実験装置を、現実的な利益を得るための道具と見なしても、それによる利得はまったく認められない。だが予想外にも、科学と技術を結合させて人々の眼を現に驚かすような不思議すらも凌駕する、われわれの先祖がおとぎ話の中で魅せられた夢物語のようなものが手に入った。数百年前の印刷技術の発明の付随効果として、人間・モノ・思考の間での交流によって、文明が高まり、拡大するのを、独特の方法で支援したのである。人間精神に、前に進もうとする目的を与えたのだ! だが、操縦できる飛行船の発明が、この時代の主題に当るのだろうか。私は、これらの獲得物は、今世紀に刻まれた特徴ではないと思う。もしこの百年間を、蒸気の世紀、あるいは、電気の世紀と呼ぶと言われるが、そして私の考えを問われれば躊躇なく、力学的自然理解(mechanischen Naturauffassung)の世紀、ダーウィンの世紀と呼ぶべきだ、と答えよう。
こんな告白をする私だが、あなた方に細い課題に注目するよう求めることを、ご容赦いただきたい。そして大きな一般的課題を脇に押しやり、現在とはあまり関係のない問題に私がとり組むことに、冷ややかな目を向けないでほしい。多くの聴衆は、ある狭い専門領域の課題以外、まったく関心がわかないないかも知れない。しかしそんな時代にあっても、死すべき一個の人間が、科学諸分野のすべて、もしくはその大半を理解することができない事態など、とおの昔のことになった。今日では、一定の専門領域に限るだけことだけではなく、狭い領域に限ること自体が禁止されるようになった。それによって、さまざまな専門領域の相互理解が常に密接になった上に、これまで敵対していた分野が視野から消え、これまでなかった分業が拡大したため、未知の領域を暫定的に一瞥するというのは、残念ながらなくなった。
かつて自然科学は、全体として二つの主領域に分かれていた。そのうちの一つは、記述的な自然科学と呼ばれ、もう一方、具体的には物理学・化学・天文学・生理学など、そして自然科学に数えられる数学・幾何学・力学を含め、結局、理論化された自然科学と呼ばれるべきとされている。そのため、当然のことながら、自然誌的な専門分野は、長い間、その使命に関する早とちりの限定的な呼び名に抗議してきた。地質学や生理学が飛躍的に発展し、またダーウィン説が幅広く受容されたことによって、これを生物の形態に対する説明と同じ様に、鉱物の形態の説明に対しても大胆に適用してみせるべきだろう。だが同時に、別の面で、抵抗感のある変換が生じることに、注意を払うべきだろう。キルヒホッフは高度の明確さをもって、力学の使命に関して、次のような包括的な主張を行った。すなわち力学の使命とは、自然現象を、極力、簡潔でかつ見通し良く記載することであり、個々についての説明は断念することである。そしてこの後は、事実のまったくの記載として、物理学全体の中で速やかに、繰り返し、説明とされるものに関連づけられることである。ここには、説明という概念に付随する非決定的部分を避ける意味もある。力による運動、物体の本性による力、物体の現象そのものが説明するというのであれば、ここでの説明で、説明されるものは、眼前にある原理ではない、すっかり新しいものの上に還元されるのを要求することになる。この考え方は自然科学にとって、異端的なものである。ここでは、単一もしくは同種の構成要素からなる複合体は失われ、複合的な法則は基本的な法則へ還元される。こういう過程が成功するのであれば、自然はこれで終わりという状態には止まってはおれない、というのが一般的になる。もし、さらに単純な基本法則を見つけることに成功したとすると、さらにこれを説明し基礎づける、より単純なものに解体できることになり、このことは、人間の知性の限界を見つけようと努力することでもある。それは、最小要素の存在を想定しないことであり、最小要素には還元できないことである。そしてそれは、先に言及したカーテンのことなのだろうか? それは、カーテンの影に挿み込まれた、決して掬い取れないイメージ(Bild、表象)によって、われわれの視覚の限界を見つけることなのだろうか? われわれは、まずこのような視点を考え方の基盤にしっかり持つことによって、「説明する erklären」という言葉の意味を保持できるはずである。
われわれは、感覚から得る印象によって、モノの存在すべてを推理する。だから科学の輝かしい勝利は、知覚の大半を除去した、大量のモノの存在を解明することに由来している。実際、天文学者は、残余のかすかな光から、この地球より千倍、百万倍大きい、信じられないほどの距離にある、無数の天体の存在を確信し、それらを解明する。天文学の観察は、形而上学の面でも依拠している観測装置、具体的に言えば、古代エジプト人の単純な照準器から、ガリレオやケプラーの望遠鏡、さらにはアルワン・クラークのまだ名がない巨大装置に至るのだが、この目録はまったく不完全なものである。大スケールの天文学で起こることは、また最小の世界でも同様にうまくいくはずである。観察はすべて、その微小なモノに相当する数百万の球体の感覚がわれわれに呼びおこすものである。われわれは、それを原子・分子(Atome und Molekule)と呼ぶ。ただし、原子の研究には、天文学の場合より不都合な点が多い。われわれは、天体をいつも地球と同じように考えることができ、その大きさや集合状態や温度などは、多様な状態にあり、金属が溶解した状態であったり、巨大な灼熱のガス球であったりするが、それらはスペクトル分析によって厳格な根拠が示される。
しかしわれわれは、原子/分子の状態についてほとんど何も知らない。そうである以上、感覚を通した観察可能な事実から仮説を組み立てることができるまでは、何も知ることはできない。奇妙なことに、天体研究においてスペクトル分析が強力な証明となったように、ここでも、技術の成果に期待することになる。個別の微小物体が存在し、その微細な物体の同時作用が、感覚的に真理と思える物体を形成するというのは、もちろんまったくの仮説である。単なる仮説であるという点では、われわれが天体を見ると、大きく広大な物体の世界が生来するが、その根拠も、私をはなれてもなお、喜びや感覚を感じる人類がいるというも、また、動物や植物や鉱物など自然物が存在する根拠も、同様の仮説である。もしかすると、天体現象に対する今日の天文学の説明は信頼性に欠けており、星は火花に過ぎないとする仮説の方が、ましなのかもしれない。もしかすると、原子仮説もまた、信頼性がないと排除されることになるのかも知れない。
こういう主張が導出可能な論拠はすべて、所を得たものとは言えない。ここで天才的なトムソンの学説を引き合いに出すまでもないのだが、彼は、1mm・3の水にどれほどの微粒子が含まれているのかについて、さまざまな方法を介してつねに一致した正しい数値をはじき出すのである。また、次のことに言及する必要もないだろう。多くの化学的事実は、原子仮説に立脚して、たとえば、気体の摩擦係数は温度に依拠することを計算で予測し、分散定数と熱伝導定数の絶対値および相対値の予測に成功した。これは、ルヴェリエによる天王星の存在の計算による予言や、W・ハミルトンによる円錐屈折の予想の確かさに、並びうるものである。これら二つの問題の内容を、ここで詳述するのは大して必要ないことだが、アカデミーの会員の名前はつねに明示しておく。前者の摩擦定数の計算を行ったマクスウェルの仕事に、手短に言及しておく。
マクスウェルの理論からは、次の結論が引き出される。気体状態にある運動する物体が受ける抵抗は、全階級の現象において、気体密度とは無関係である。これに従うと、それぞれの現象はこう特徴づけられる。すなわち、気体の質量は、運動体の質量を比較する際、まったく意味をもたない。これに従うと、それぞれの現象はこう表現される。気体の質量は、運動体の質量を比較する際、何の役割もない。このことは、これまでの観察から言われたきたこととは逆である。われわれは常に、希釈状態よりは、密度の高い空気における抵抗の方が大きいと見てきた。だから、この結論は端から誤りに見える。抵抗が密度に依存しないのなら、もし密度がほぼゼロである場合、気体は存在しないことになる。このような問題すべてから、マクスウェルは逃れられない。それで彼は、ともかく計算結果を公表し、その後、誤りと見える計算結果は、むしろ矛盾をはらむ帰結として信ずべきものと本心を吐露した。それ以来、さまざまな現象群に属す観察の失敗は、ここに押しつけられることになった。そして、単にマクスウェルは信用できないからという論法の圧力で、この誤りは補正されることになった。この場合、気体密度に依存しない抵抗の限界の内側では、隙間が小さすぎると、抵抗は無くななり最終的にはゼロになる。そこでは、気体が存在しないことになり、マクスウェル法則の妥当性の限界を事前に定めておく理論で、これまではうまくしのげたことに、まったく矛盾はない。
原子論は次のような仮説に密接につながっている。物質世界の個々の要素は、決して静止しているのではなく、壁に対する建設足場のように、互いに固く並んで物質を形成しているのではなく、活発に運動しているものと考えられる。熱の力学理論と呼ばれるこの仮説は、このような事実の上に立つ見解である。その単位と数値は、R. マイヤーによって、エネルギー保存則として非常に明確に表現された。これは三つの形をとることができる。第一に、可視的な物体の運動、第二に、熱、すなわち最小粒子の運動、そして第三に、仕事、つまり、引き合う物体を離したり、反発する物体を近づけること。第三の形は理解しにくいように見えるが、磁気や電流の仕事率がヒントになる。これらは、構成の面でさまざまな形態をとるから、無意識のうちに、運動の役割として、肉眼では見えない分子の熱振動を考えたり、光エーテル(Lichitäther)という未知の媒体の運動という、これまで立てられたことのない仮説にその本性を委ねることもある。反発するモノを近づけたり、引き合うモノを離すことは、このような媒体のなかで運動を増大させるはずのものであり、そのため、可視的な運動や熱運動の総量が減少するのは不思議ではない。仮説の媒体中で一部分が変化するのである。逆の場合には、この反対のことが進行する。このように、一般的な原理から、すべての現象は容易に推論できる。つまり、熱、可視的な運動エネルギー(lebendige Kraft)、仕事の三つは、相互に生産され、変換することができ、つねにその総量は一定で変わらない。
一般的な原理である熱の力学的理論としては、これに沿って、これを厳格に限定する、いわゆる熱の力学理論の第二法則が存在する。これは次のように表現される。仕事と可視の運動エネルギーは無条件で相互に移行し、無条件で熱に変換する。ただし、逆方向の場合、仕事もしくは可視の運動エネルギーにおける、衝撃時の熱の他への変換は、まったくないか、その一部だけが可能である。この原理は、第一法則の出発を煩わしいものに近づけ、その多くの結論を扱いにくいものにする。われわれの目的に沿うエネルギーの形態はつねに、仕事か可視の運動エネルギーである。生(なま)の熱現象は、われわれの手の間をすり抜け、われわれの感覚から逃れ、われわれにとっては静止しているのと同然である。だから、熱というエネルギーの形態はしばしば、分散・劣化したエネルギーと表現され、それゆえに第二法則は、エネルギー劣化の進行と結びつき、最終的には、仕事をしうるすべての張力と、物質世界におけるすべての可視的な運動として落ち着くことになる。
万有宇宙を熱的死(Wärmetode)から救い出そうとする、どんな試みにも成功はない。私は、それが可能であるなどという期待を持たない、そのような試みは決してしないことを申し添えておく。
私の意図するところはもっぱら、第二法則を、別の角度から、いささかでも明らかにすることにある。分子の熱運動の確からしさは、必ずしも、隣接する大量の分子自体の運動状態から提示されるのではない。むしろ、独自の軌道を不断にそれぞれの分子個体の、相対立する運動の影響として表出する。(p.34)このことは、次のように言うことができる。これら構成要素の独自性は、物体の外的な現象として、ただちに表出する。たとえば水平な金属棒の場合、その左右の末端では、分子が活発に振動してより熱くなるに違いない。ガスの場合は、ある一点に対して多くの分子が向かい、突然、濃度が高まることがあるであろう。こういうことにわれわれは決して気づかない。それは他でもない、大数の法則と言われるものである。
よく知られているように、ブックルは以下の次のことを統計学的に証明した。十分な人数について考えれば、自然に生じる死亡や疾病の数値だけではなく、いわゆる自由意志による行動、たとえば一定の年齢における結婚、犯罪、自殺などの数は、それらの外的条件が本質的に変化しないかぎり。ある水準の数値が完全に保たれる。このことは、分子の次元でも同様である。ピストンにかかる気体の圧力としては、ある分子は激しく、ある分子は柔らかく、ある分子はまっすぐ、ある分子は斜めに、ピストンに衝突する。しかし、衝突する分子の数が大きいため、圧力の総量はつねに一定であるだけではなく、ピストンの見えるか見えないかの小さな部分に、等しく平均的な強さで衝突する。もし、ある場所の圧力が他より強いことがわかれば、ただちに、分子がその位置に集中的に向かう外的原因を調べることになる。もし、ある物体の系のエネルギーがある水準に維持されているのであれば、そのエネルギーは他の状態に恣意的に変換されることはないし、別の確からしい形態に移行することもありえない。その物体の系のエネルギー分布が、当初、確率法則に一致しないものだったとすると、遅かれ早かれ、それに向かうことになる。ここで、われわれが、あるエネルギー形態が実現することを望んだとしても、それは現実のものになりえない。たとえば、物体が全体として運動していると想定してみる。この場合、分子すべてはそれぞれに、ある方向にある速度で運動していることが要請される。われわれは、分子すべてを独立した個体として把握しようとするのだが、それは想定しうるものであっても、あり得ない事態である。相当数の独立した個体を、みな同じ様にそれ自体の進行にゆだねて考えることは、どれほど困難な作業であるかはよく知られたことである。無条件の使用可能性を手にするという、われわれの最大の目的は、すべての個体の運動をこの形に合致させることによってのみ実現する。この合致からの逸脱それぞれが、エネルギーの劣化である。このような不一致は、真の力学的な仕事におけるエネルギー形態ではありえない。これに対して、化学的な仕事の場合には、ともかく確率法則に見合った原子の混合が生じうる。
これまで、劣化したエネルギー形態と呼んできたものは、もっとも確率の高いエネルギー形態のことに他ならない。言い換えれば、もっとも高い確率の分子の分布のことである。ある量の白い球を考え、そこにほぼ同量の黒い球が加えられたとする。最初は白い球を、またある時には黒い球を手にとることになる。次にそれを手で混ぜて、互いの位置に影響を与え続けると、ある程度、時間が経てば、すっかりごちゃまぜになって、サイコロを振るのと同じ事態になる。それは、こういうことである。周囲より熱い物体[分子群]があったとする。それはすなわち、遅く運動する集団のまん中で、早く動く分子の大きな集団があることになる。初めは、熱い物体[分子群]は冷たい周囲と接しているのだが、確率法則に従った速度の分布になる。温度の差異はこのように相殺されていく。ただしわれわれは、このエネルギー分配の過程に、それ自身では形成されることのない迂回路をはめ込んで、所与の非確率論性を活用し、他の非確率論性を根拠とする生産を行う。言い換えれば、われわれは、熱い物体[分子群]から冷たい物体[分子群]へと熱を変換させる機会に、熱が移行する部分を、見える運動の形に、もしくは仕事を変換させる。これが、圧力機械もしくは一般的な熱機関という形として現れる。
同様なことは、エネルギー分配の過程が当初、確率法則に従わない場合、たとえば、物体[分子群]がその周囲より冷たい場合でも、あるいは、一方の側で分子が隙間なく詰まっていて、他方の側が薄く散漫な気体の状態でも、毎回、このことは生じうる。ある容器の下半分に窒素が、上半分に水がつまっており、ともに等温・等圧だったとすると、この分布は確率原則に従っていないから、すべての分子は、白・黒の球の場合のように、均一な混交に移行することが期待される。気体の混交は直接的に生じ、モノの落下に似て、異なった暖かさの物体[分子群]の間で、温度は直接的に貸し出されて、温かさは仕事には利用されない。ただし、この二つの気体に迂回路を設けて、それによって含まれている熱の一部を、目に見える運動や仕事に利用することは考えることができる。実際、レイライ卿が初めて、これが実現できることを示した。
個々の気体においては、すべての分子が同じ速度をもっているわけではなく、大半は同じ速度なのだが、他の分子は遅く、中くらいの速度のものもある。マクスウェルは、初めて次のことを示した。すなわち、さまざまな速度は、測定によって状態を決定しようとするとき常に生じる観測誤差に正確に対応することである。この二つの法則の一致は、自然の偶然によるものではなく、両者それ自身が、確率法則によって決まるものだからである。気体の分子すべてが、それ自身の速度をもっているとしたら、エネルギー分布は確率法則の内容から逸脱してしまう。そのようなエネルギー形態は、実際にはこれまでに提示しえていないのだが、それでもなお、熱いものから冷たいものへ熱が移行するような、ごく普通の温度の移行が、あり得ないエネルギー形態を生むきっかけになりうることを、われわれは、アプリオリに主張しうる。
まったくありえないエネルギー分布が、場合によっては存在しうることは、確率論的に質的に示せるだけではなく、その系の力学的条件が既知であるという仮定に立てば、当然、厳格な確率原理に従う確率計算によるエネルギー分布を組み立てることも許容される。クリース(Kries)の言う、当面の方向性の論理的基礎、フライブルクのモールによる確率論の原理に関するものである。各々のエネルギー分布は、そこから、数量的にその確率が決定しうる。その最重要の作業は、クラウジウスによって、理念的に、エントロピー量として名づけられた。以降、われわれはこの言葉を使用する。クラウジウスが示したように、すべての変化においてエントロピーは増大し、それ自身によって進行する。エントロピーは、他の系がより多くのエントロピーを増大させたときにのみ、小さくなりうる。最初、温度の違う物体[分子群]が二つあり、その後、両者の温度は均等に達するとする。その将来の状態の確率を計算すると、二つの物体[分子群]の温度差が有効であると、移行する熱のどれだけが仕事に変換しうるのか、確率論的に正確に計算できる。火をつけられた石炭や、燃える石炭ガスのように、最初の温度差が常温より非常に大きい時にのみ、熱変換のすべてが仕事に変換できる。これを数学の形で言葉にするとこうなる;無限の温度から終局の温度に変換し、最終温度ですべての熱が仕事に変換する。無限に高い温度というのは、無限にあり得ない状態のことである。すべての分子の運動はますます同じになっていく。別の表現をすれば、見える前進運動する物体[分子群]は、無限にあり得ないエネルギー構図のことである。見える運動とは、あたかも無限に高い温度の熱のように振る舞い、それはすべて仕事に変換する。
機械とは、自由使用できる力の助けによって、負荷を克服する装置である。機械では、負荷の力に同等の重さが維持されているかを、われわれは常に算定する。この場合は、実際に作業に利用されることはない。均衡が続く限り、力がいささかも大きくなることはないから、その負荷も寸毫も変動することはない。熱論(Wärmelehre)ではもっぱらアナロジーが用いられる。われわれは、エネルギー変換を常に目で見て認識するが、その際、エネルギー分布の確率はそのままにある。それは、可逆的な状態変化と呼ばれる。確率はつねに同じままであるとすると、逆の方向にも同じように進行しうる。ある方向にも逆方向にもまったく進行しえないのであれば、同じ重量の場合であり、もちろん、その負荷は力で動かすことはまずできない。システムの状態がそれ自体の確率で進行する場合にのみ、エネルギー転換は起こりうる。しかし、確率の差異が非常に小さいと見なせる場合には、可逆的な状態変化を任意に生じさせることができる。圧力と反発力が完全に等しい時、熱理論家は、熱について、ある物体が完全に同じ温度へ移行することか、ピストンの後退を連想する。実際、第二の物体がわずかに冷たい時、反発力はわずかに小さいはずである。可逆的な状態変化は、さまざまな物体でさまざまな様態のものが考えられる。それらは常に、その特徴の間に不思議な関係をもって進行するが、普通、われわれはその関係を推測することはできない。これらの関係は実験を行えば、安定した規則性が現れる。具体的には、物体の圧縮-、温度-、膨張-係数と個々の熱との関係、体積変化と凝固の関係、圧力による融解点の変化(p.39)、膨張による蒸気の過飽和と他の特徴との関係、塩の可溶性・その個々の重さ・それが溶解した蒸気の状態との関係、物体の電磁的・熱的特徴との関係、結合熱・電磁力・その温度依存性との関係、などである。
一般に太陽は、動物や植物など生命はもちろん、さらには気象学的現象にとどまらず、アグロストリ(Agrostoli)の海流製粉所を除けば、地球上のすべての過程のエネルギー源である、と考えられている。
ヘルムホルツは、「石炭に由来する熱は、太陽の熱が貯蔵されたものにすぎない」と言う。しかし、非常に利用価値の高いこれらのエネルギー源に対して、われわれが、これらを十分に冷却するだけの使途の道を提示しえているか、私はわからない。われわれが直接手を触れる地表の物体にはエネルギーが貯蔵されているが、いったい、それがどれだけの量か、まったくわからない。ナイアガラ滝が生産するすべての熱が、われわれの機械の大半を駆動させるのに十分なのかも知れない。われわれの周囲にある物体すべてに、仕事に変換できる熱を保持させられるのであれば、尽きることのないエネルギーの貯蔵庫になりうる。しかし、手元にあるエネルギー状態では、太陽の作用による温度の不均等は生じず、エネルギーはほぼ確率論的に分布し、われわれの目的に適合するように分布させることがでない以上、そのようなことは不可能である。それに対して、太陽と地球の間は、巨大な温度差が支配しており、この二つの物体の間では、エネルギーは確率法則に沿って分布するようなことはない。二つの物体の間での、より大きな確率に向かう温度の均質化の傾向は、百万年単位の長大な期間、続くことになる。太陽エネルギーが、地球の温度にまで降下していく過程でとる二つの形態は、確率論からはかなり外れたエネルギー形態となり、ちょうど蒸気ボイラーの水分を冷水へと転換するように、太陽から地球への熱転換は、われわれが仕事遂行に利用できることになる。生命の普遍的な生存闘争は基本物質を求めての闘争ではない。すべての生命にとって、基本物質である空気・水・大地は、過剰に存在している。また、熱という変換不可能な形のエネルギーのためでもない。そうではなくて、エントロピーのための闘争である。エントロピーは、熱い太陽から冷たい地球へエネルギーが移行することで、自由使用できるようになったものである。このエネルギーの移行をできるかぎり利用しつくすため、植物は葉の表面を限りなく広げ、地表の平均温度が下がってしまう前に、太陽エネルギーを未解明の様式によって、現在の実験室の研究では予想もつかない化学反応系へと導いていく。そしてこの化学的な調理場の産物は、動物界にとって闘争の対象となる。
個別の場合で詳しく説明するとこうなる。ある物質系があり、そのエネルギー分布はつねに確率論に従うのだが、ある回り道があって、うまく機能するとそこでは、あり得ないエネルギー分布が現れるものとする。それは、あり得ないとは言え、自然のなかでは起こりえるのであり、ちょうどお気に入りの道を上手に運転するようなものである。ただし私は、誘われてもそのような芸当はできない。残念ながら私は、専門家だけが興味をもつ細部に魅かれることになり、一般的に重要なことのなかで、特定の分野に私は魅かれる。私はさまざまな機会に、一般的な物体ではなく、もっぱら気体について言及していることに、恐らく皆さんは気づいておられると思う。そしてこれからの議論は、以下のことが基盤となる。気体において分子どうしには非常に大きな距離があり、また、相互の間に取り上げるべき力はほぼ存在しない。そのため、気体に作用する外からの力は無視することができ、だから気体分子は実際、黒と白の球という形に書き表されることになる。この混交物は確率法則に従い、それは他からの影響で混乱することはない。容器の内側のおのおのの点[気体分子]は、それぞれ自身が、それぞれの方向に、同じ様に確率論的に振る舞う。それら自身は、さまざまな速度を持っている。だがまた、気体全体のエネルギーというものがある。ある分子の速度が大きければそれだけ、残りの分子の速度の選択の幅は限られる。つまり、個々の分子の速度は、常にあり得ない状態から、さらに極端にあり得ないものをとるとなると、気体全体が保持している運動エネルギーを考えると、残りの運動エネルギーはゼロになってしまう。おのおのの気体分子は砲弾のような速度で、1秒間に数百万回、互いに衝突する。われわれは、これらの物体の要素が、乱れて飛び回る、互いに近接した図を描くことができるだけである。しかしまた、われわれは、ちょうどロトゲームのように、それ自体は単純な分析を組み合わせて、その平均値を知ることができる。
流れ落ちる流体[水]と固い物体[氷]という、二様の水分子は、分子力(Molekularkräfte)の効力に由来する。実際、流体である水を、蒸気の分子から分離するのには、固有のエネルギー消費が必要である。水分子の間で作用する力は、二様の水分子が共存する確率論に従って当然、増大していくものと考えられる。
この力は、いま示唆したように、媒体にあるものとみられる。二様の水分子の分離は、媒体がもつエネルギーを増大させるはずである。もちろん、われわれは、このメカニズムをまったく知らない。ただし、普通の流体のエネルギーは、それ自身に生じる渦や輪の相対的な位置で変化する。媒体に含まれるエネルギーは、熱運動によって減少していく。二様の水分子の分離は、引力によるのではなく、それ自身の確率論的な基盤による。なぜならそれは、気体分子の大きな速度より、さらに上にあるからである。この分離を介して、水分子の熱エネルギーは縮小し、それ以降、残りの分子に許される可能なエネルギー分布の数は減少する。
ここで私ができるのは、最終結果へのかすかな道筋を描くことである。ある流体が閉じた大きな容器に入っており、内部の空間は完全には満たされていないものとする。その内部は非常にわずかなエネルギーしか保持されていないとすると、ある分子が分離するには十分ではないので生じないだろう。ただし、すべての分子は球体の状態を保持するに違いない。こういう状態は実際には実現しないのかも知れないが、すべてのエネルギーを消費して、液体の上にわずかな蒸気があるような、比較的少数の分子が分離することは十分起こりうるだろう。温度が上昇するにつれて、これらはますます圧縮され、液体はますます弛緩状態になっていく。ここで、別の極端な場合を考えてみよう。全体のエネルギーが、わずかなエネルギー量を超えてはるかに大きく、たとえば、二様の分子が媒体から離れて結合や分離を行ったり、これらの間を移行する程度の小さなエネルギー量ではなく、これらと比べれば消えてしまう(分子力の仕事は消失する)ほど大きく、そして気体が維持するあらゆる密度をとりうる、大きな質量の場合である。この場合、二つの状態の限界は「臨界温度 kritische Temperature」と呼ばれる。これより下の温度では、したたる流体と蒸気は存在するのだが、両者の違いはほとんどわからない。分子力の作用は、重力ほど強くなく、それ以上のものはほとんど同じであり、流動的か気体状態かは、二つの枝のように相互に流動的であり、言い当てることはできない。
二つの異なった液体を混ぜ合わせると、温度が上昇する。ただし、相互の引力が優勢である場合には、冷却に向かい、元に戻っていく。前者の場合は、流体自身で混交が進むが、後者の場合はそうではない。だが、前者の場合は流体ゆえに自ら混交が進むが、後者の場合は、ちょうど完全な分離のように、一定の混交は、黒と白の球で表現されるような確率論的な進行と信じ込むのは正しくない。ここでは以降、気体の場合、何らかの顕著な温度上昇を必ずしも伴うわけではないが、混交を含むものとする。したたる流体が交じり合うと温度が上するが、だが、それ自身で混交が進むと、冷却も生じる。だから、混交状態について優勢な確率計算には常に、揺れがつきものである。混交に向かう傾向とは、有効で優勢な凝集力にうち勝つことである。

[ここから、p.48、上から7行までのアナロジーは、意味がないので、省略]

(p.48、上から8行目)
それ自身、同じ確率状態には絶対に移行しえない物体の系があったとすると、その物体の系は、ただ確率に沿うのみであり、そのことは、その物体の系は、それ以降、さまざまな状態を駆け抜けるが、周期性が現れたり、初期の状態に戻るような体勢をとることはあり得ず、永遠に運動し続ける状態(perpetuum mobile)になる。ここで熱力学第二法則を思い起こせば、これが普通の状態であるという認識に至る。もし、物体の系の最終数からperpetuum mobileを形成しえないという公理に立つとすると、この公理は、第二法則という基本公式を意味しする。この公理の下では、世界は物体の最終数の巨大な系であることになり、この仮定によって世界全体はまた、perpetuum mobileたりえないことになり、これにはわれわれは驚くばかりである。われわれは、宇宙をそのように眺望するようそそのかされ、この見解は刺激的である上、時には疑問の余地のないものと提示される。しかし私は、自然の限界にまで広げるのは、経験法則だけであるべきだと信じている。
そこで原子の概念が、物理と化学の全領域で真の役割を与えられるのであれば、動物という生命現象、あるいはわれわれの思考や感覚も説明が可能性なのか、という疑問が、当然、生じる。私は、ヘルバートに言うように、いったい誰に向かって、“私 Ich”は単純な存在であると、疑問の余地なく言うるのか、見当もつかない。その一方で、感覚やすべての思考の要素は、確実に単純なものなのか? 私は、自分の意識存在をそうは言えない、と確信している。ここでは、感覚を完全に定義できておらず、われわれはただ、赤の感覚は青の感覚とは別物であるとは言いうる。しかし、この二つの要素が、何か意思の動きに対応する、多数の原子の複雑な移動があるとは言いえないのだ。われわれが赤いと感じるとき、その感覚である何かを、われわれは感じとることができないのである。
思考可能となる以前の、単純なものとして理解するよう、苦労して開発された構成物は、恐らく、われわれの感覚とはぶつかるものなのだ。だが私は、感覚を、科学的な問い立ての言葉の中から取り除くことができる。逆に、コペルニクスの同時代人の直接の意識では、地球は回転していないと感じられた。この直接的な道筋は、むろん、われわれの感覚から直接流れ出たものであり、それを介してわれわれは、いかにして宇宙の認識に達するか、を示している。しかし、これが目標に向かわないのだとしたら、われわれは、自然科学の採る道をとって返し、変更すべきである。こうして、われわれは仮説をたて、原子複合仮説を発達させ、同類の表象を拡大させている状況である。ここから、大量の仮説がさまざまな場所で生まれ、それらは生き物のように多くの部分に分裂し、それらにはよりよい生存条件を求めて移動しようとする傾向が内在している。
これらのことは、外部の状態、化学的状況、そして周囲の媒体・光・影などの運動に対する感覚を強く刺激する。これらの感覚は、痛みに相当するものから逃げるよう、遺伝を介して、絶え間のなく強制的に報告を生み、これを中枢部に結びつける。個体の内にとどまっている外の状況についての粗い記号は、すべて、外部の粗い現実に応じた内側の模倣への要求に沿って、数学者が大きさを任意の文字と関係づけるように、しばしば言葉の頭文字が選ばれるのだが、込み入った関係を表す記号へと発展する。個々人には、発展したそれぞれの記憶記号が手元にあるとすれば、それをわれわれは意識(Bewußtsein)と定義する。こうすることで、はっきりと互いに結びついた意識的な観念は、思考の内に貯蔵され、また、架橋によって無意識の反射行動を形成する。もし、意識はそういうものではまったくないのだとすると、いったい、われわれの感覚とは何なのか? だが私は、感覚という言葉を排除しかなかった。この仮説[原子仮説]が、関係するすべての現象を説明するのだとしたら、地球の自転がどのように起こるかという問題ともつながらなくてはならない。非常に時間がかかるが、唯一、解答可能な問いという道は、われわれの思考にとって最も単純な要素である感覚から、いかにして仮説に到達できるか、ということである。最後に、実のない形而上学にすり寄ることは、私の意図するところではない点は、明言しておかなければならない。ここで私の言うところのものは、少なくない面で真理とは一致しないのかもしれないが、すべて私の確信するところである。こうしてできるかぎりの努力を重ねることによってのみ、われわれは真理近くに到達することができる。ある詩人はまさにこう言っている、「疲れを知らない、長く続く創造の作業。それは、秒・日・年という時間を通した、大きな責任による、決して破壊されない、砂粒だけのための、永遠の砂粒の構築物・・・。」
もし、私の今日の講演が、自然認識の拡張にいささかでも寄与しうるのであれば、望外の喜びである。

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昔、ポッキーという家族がいた

 

 

むかし、わが家にはポッキーという家族がいた。 ほんとうに気立てがよく、ハンサムなゴールデンデドリバーだった。 読売新聞文化部から、「時の栞」という欄に、忘れ難い一冊を書くように依頼され、私は、コンラート・ローレンツの『人、イヌにあう』を選んだ。 文化部記者がカメラマンととも拙宅まで来られた。 ポッキーを枕にこの本を読んでいる一枚は、苦心の末の産物である。 以下は、『読売新聞』2004年3月28日付、の再録。

 

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この歳になっても人見知りをするが、幼年時代はとくにきつかった。

祖父は派手な人で、接待好きだった。 名古屋の郊外に接待用の別邸を建てたが、戦災でこれだけが残り、私はこの使いづらい家で育った。 なぜか、電車の最寄り駅から門の前まで桜並木が続いていた。 それは訪ねてきた人が迷わないように植えたものだと、後で知った。 庭で園遊会を開いたり、御園座に出ている歌舞伎役者を泊めることもあった。 来客があると、初孫だからと晒しものにされるのが嫌で嫌で、お手伝いさんにかくまってもらった。 祖父が死ぬと莫大な借金が残った。 借りた金で大盤振る舞いをしていたらしい。

いつも犬を二~三匹飼っていた。 メス犬が子を産むと、縁の下にもぐりこんで終日、話を交わした。 秋田犬の子犬の丸い腹や癖のある乳臭さは、遠い日の日向ぼっこの記憶が戻ってくる。 それはまた、威圧的で近寄り難い大人たちの世界とはまったく別に、生き物たちの世界が厳として在ることへの、私だけの手応えでもあった。

いったん犬との間にきずなが結ばれれば、彼らとの間でと同じように、冗談をいったり笑ったりする間柄になれること、そのためには、変わらぬ誠実さと鋭い感覚が絶対不可欠であった。 庭に池があった。 私は、近くの小川で獲ったオイカワやイシガメを放した。 生き物たちの結界をかいくぐって、石燈籠の陰から、悠然と泳ぐ姿を眺めるのが好きだった。 ところが、大人たちは庭下駄でやってきて、「なーんにもおれせんがや」と言うのが常だった。 その無知、無神経を心底、許せなかった。

大人たちが想像すらしない、いっさいの価値を認めない世界が存在し、その秘密を私だけが知っている。 この自信は、その後の生き方を決めたような気がする。 権威や常識なぞつかの間のもの見下し、孤独に耐える快感を覚えた。 周囲に反抗することすら控え、熱い湯船からそっと出るように、郷里から脱出することばかり考えていた。

こんな鬱屈した感情を忘れかけていた大学時代に、翻訳されたばかりのローレンツの『人、イヌにあう』を手にして仰天した。 犬の本と言えば、子供向けの絵本しかなかった時代である。 こんなにできる大人がいたのかと、素直に甲を脱いだ。 かりに言葉にしたとしても、大人たちはそれを評価しないだろうと、私が勝手に断念した作業を、ローレンツは徹底して進め、犬たちの本性を的確に表現していた。 著者による挿絵も、一見して、犬を知り尽くした者のそれであった。 能力差は較べるまでもなかった。 救いは、「そのころ私は年のいかぬ少年だたが、すでにひとかどの動物学者であった」という一文をみつけたときである。 ローレンツと私は、同じ少年時代を送ったのだと確信した。

いうまでもなくローレンツは、「刷り込み」概念を提唱した動物学者で、オーストリア初のノーベル賞受賞者である。 彼は、野生こそ真の自然であり、家畜化されたものは二級と考えていた節がある。 それにしても、日本人の犬に対する感覚は、ここ半世紀の間で激変した。 高度成長期の無関心から、平成ペットブームへと至る過程で、犬たちの野生は表白され、消費財になってしまった。 ローレンツの世界は、もう戻ってこないだろう。 わが家にはいま、ポッキーという名の犬がいる。 妻と娘が、私より人間的に扱っているのでは、と釈然としない毎日である。 誤解も理解のうちと、もう許すことにしている。

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再録:『科学革命の構造』新版に寄せて

2023年8月1日付、『聖教新聞』の文化欄に掲載された、クーンの『科学革命の構造』についての評論を再褐しておきます。

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半世紀前、理学部の学生であった私に、大学紛争は不意打でやってきた。この瞬間、私の中で、大学は反権力の象徴から解体されるべき旧体制へと反転した。いまとなってはもう説明不可能なのだが、他の学生と同様、私もひどく怒っていた。そして残る人生すべてを大学批判のために生きようと決心してしまった。具体的には、在野の研究者として何か成果を上げ、研究は大学や研究所でしかできないとする社会通念を崩してみせることであった。
この時、帰郷の際に何気なく買ったのが、翻訳されたばかりのT・クーンの『科学革命の構造』であった。その後、私は会社勤めをしながら、独学で生物学史の論文を書く生活に入ったのだが、困難な状況の中で、心の支えとなったのがこの書であった。この本は、物理学を素材にしてパラダイム論を展開しているのだが、この論法を生命科学に当てはめて批判をするのがお前の役割だ、と呼びかけているように思えた。
最近、原著出版半世紀の記念版が新訳で出版された。原文の微妙な表現を日本語に移すことに神経が向けられ、旧訳より鮮明な文章になっている。半世紀後のいま読み返してみると、三つの点が浮かび上がってくる。
第一は、この本の核心はやはりパラダイム論にあり、いまなお議論を呼ぶ部分があること。第二は、この本が引き金となって、科学論の焦点は、理論重視から科学の社会学的研究に関心が広がったこと。第三に、この出版の根底には、自然科学が担う政治的な機能の歴史的変換があること、である。
第一に、クーンはパラダイム概念について、いろいろ説明を工夫しているのだが、結局それは、ある科学者集団が憑かれたようにとらわれる、問題解決のための枠組みのことである。科学者はこの枠組みの内側で研究を進めるから、効率的に論文が生産され、科学は前進しているように見える。この枠組みの下で行われる研究を、クーンは通常科学と呼び、実際の研究の大半は通常科学であると喝破した。
通常科学の下では、科学者は型の定まった問題にしか取り組まないから、次第に矛盾が蓄積し、やがて危機が訪れて、新しいパラダイムに移行してゆく。クーンは、このパラダイムの交代を科学革命と言うのである。
第二に、クーンの科学革命論に従うと、科学の進歩は、その成果が一つ一つ積み上げられていくのではなく、パラダイムの交代という非連続な過程になる。さらに、それまでの科学論は科学理論にのみ関心があったのだが、クーン以降は、通常科学を形成する科学者集団の行動も研究の対象となり、科学社会学という新しい分野を強く刺激することになった。
第三に、クーンのパラダイム論は、それまで絶対的なものとされていた自然科学の真理性の地位をも考察の対象に繰り込んだ。そのため当時の科学哲学者からは、科学を相対化し、科学の発展を集団心理学の対象に貶めるもの、と非難されるまでになった。ただし、これには少し説明が必要である。二〇世紀前半には、ソ連政権やナチス政権による自然科学への政治的介入があったため、これに対抗する最後の砦として、自然科学的真理を掲げる思想的立場(代表は論理実証主義)が現れた。
この学派の多くはアメリカに亡命し、第二次世界大戦後は、自然科学を至高のものと考える科学啓蒙運動が起こった。この精神運動が一巡したのが『科学革命の構造』が出版された一九六二年ころであり、同年にフランスでは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』が出版された。両者の根底を流れる、自然科学の相対化への衝動という同時代性を見落としてはならない。
問題は生命科学の場合である。戦後の科学啓蒙運動は、戦前まで生物学は思弁的な生命論に耽っていたとする見解を広めたため、生物学は実験重視の姿勢に傾斜した。その思想的基盤の上に、一九六〇年頃、分子生物学が登場したから、生命現象はすべて物理・化学によって説明されるとする生命観が速やかに浸透していった。
ところが二十一世紀に入ると、生化学の領域において、これまでとは異質の変則的な概念が用いられ始めている。具体的には、「天然変性たんぱく質」や「相分離概念」などがそれである。そしてクーンに従えば、変則的現象の出現は科学革命の前兆である。この事態は、半世紀以上に渡って維持されてきた分子生物学的生命観を、根本から見直さざるをえないことを強く示唆している。その場合、これまでは本格的には適用されることのなかったパラダイム概念が、巨大研究体制にまで成長した生命科学に向けられることで、その諸特徴を効果的に扱う概念として蘇る可能性は、決して小さくはないのだと思う。
米本昌平・科学史家、『聖教新聞』2023年8月1日付

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ユクスキュル『理論生物学 Theoretische Biologie』(1928)

 バイオエピステモロジーの観点からすと、J・ユクスキュル(Jakob J. B. von Uexküll:1864~1944)は、本格的に取りあげるべき重要人物である。なかでも『理論生物学 Theoretische Bioloie』(1928)は、その認識論的基本が、バイオエピステモロジーの問題設定と、よく適合する理論的な作品である。以下は、その初版序文と序論の和訳である。

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初版前書き(Vorwort zur ersten Auflage)

 自然科学は、学説と研究の二つから成る。学説は、自然に対して明確な見解を述べるものである。これらはそれ自身が自然という権威のうえに、学説の形で展開する。

 だが、と言うのは、間違いである。自然は学説を提示するのではなく、たんに現象のなかでの変化を示すだけである。これらの変化は、われわれが立てた問いへの回答として利用できるだけである。自然に対する科学の立場についての正しい理解を得るには、学説すべてを問いの形に変換し、科学者がそれへの回答に用いている証拠を、自然現象の変化の弁明に充てなければならない。

 研究とは、問いの形の仮説(Hypothese)を立てる以上のものではなく、そこでの回答(These)は、すでに明確なものである。解答と学説の定立についての最終的な認識は、研究者が自然のなかに変化をじゅうぶんな数を観測すれば、その仮説の意味は肯定もしくは否定されることになる。学説が依拠する権威は、自然のなかにあるのではなく、自身が立てた問いに答える研究者の側にある。

 われわれはただ、学説の形で自然科学の最終的な成果を受け容れるだけであり、そこからさまざまな論理規則を動員して思弁を試みることになるのだが、少なくとも日々、自然と直接やりとりをしている農夫や庭師と比べると、自然については何も知らない。

 しかし、農夫や庭師自身は、問いを立てる技能を持っていないから、自然科学者ではない。

 この問いを立てる技能は、自然科学のすべての認識への入り口を形成する。ただし生物学の場合、それは、すべての学説の中心にある固有の困難と結びついている。

 私はこの本で、生物学的学説の本質について、決着をつけられる問題はないことに疑問はないという形で、生物学について考察を進めようと思う。

 自然はすべて確実だが、科学はすべて問題含みである(In der Natur ist alles gewiß, in der Wissenschaft ist alles problematisch)。科学は、自然という建物に対する足場(Gerüst)を築いたときはじめて、その目的を果たしたことになる。科学の目的は、探求者が全体の展望を見失う心配をすることなく、どこにでも接近可能な確かな支えを構築することにある。だからなにを置いても、足場自体は自然に属すのではなく、むしろこれと敵対するような、しかしそれでいて決して矛盾が生じないような構造の足場を、できる限り確実に構築しなくてはならない。

 このことは、足場は、常時更新される必要があることを意味する。そしてこの本では、この足場の更新を試みる。

 こうする理由は次のような事情からである。これまでわれわれは、生物的自然のなかにある計画性(Planmäßichkeit)を扱うすべての問題において、この計画性をあっさり否認してきた。今後、このような姿勢はとらない。多数の動物が、最初は独特な物質の混合から発生してきたとわれわれは考える。すると、この問いに対する探求から、すべての動物は受精卵から発生し、その細胞からすべての細胞が生まれる、という認識に達する。

 「すべての細胞は細胞から」という学説法則である。ここからわれわれは、すべての生きた細胞は、原始スープから生まれたに違いないという仮説に至る。このような手法で、われわれは、自然要因から計画性を排除しようとしてきた。

 原始の昔に存在したという原始スープは、単なる想像であり、実験によって肯定も否定もされない。だからわれわれは、生物的自然には自律的な計画性という要因が存在するのかという問いに対して、自然のなかの計画性という見方の有効性を見定め、それに対しての否定的な主張と、肯定する物的証拠を対比させるためにも、他の手法について考え出さなければならない。

 近年、その物的証拠は蓄積しており、この問題は決着がついたとみてよい。「細胞は細胞から」という原則には、「計画性は計画性から」という原則を付け加えるべきである。こうして生物学には、新しい足場が必要になる。これまで借りていた物理学と化学という足場では、まったく不十分である。なぜなら、物理と化学は、計画性を自然要因と見なさないから、生物学は、計画性を生命の基本と見なす学説に応じた足場を築く必要がある。

 この足場構築の難しさは、そのための概念が手元にほとんどなく、新しく問題定立を行いながら作っていかなくてはならないところにある。

 教科書は、一定の図式に従って一定の順序で事実を述べるものだが、本書の場合、これは適切ではない。読者は、この足場全体を理解するためには、一定の順序で読み通さなければならない。そうすれば読者は、一定の見解にたつ足場が誤りであるか、改善が必要であるか、あるいは足場全体を拒否すべきか、最終的な判断に至るはずである。

 

 

序論(Einleitung)

 現代の生物学は、一定の学問領域を占めるだけではなく、物理・化学の基礎概念からは決して導出できない、固有の理論的基盤をもっていることを主張する。

 理論生物学の必要性が意識され始めたのは、比較的最近のことである。動物学や植物学という生物学の専門分野が、記載に自らを限定しているのだから、事実の大量の素材を見通しの良い配列に並べるための特別の努力が必要なのだが、理論的基盤を求める特別の努力が必要だとは思われていない。

 形態の記載という行為からは、生命の過程の維持については、物理と化学の方法で基本的に十分であることになる。それゆえ、生命という存在を物理・化学的な機械と見なすことに行きつく。

 このような方向の考え方は、主観がうけとる現象を客観的過程として関連づける試みでしかなく、いったん否認されるべきである。生命の要素に対してわれわれが出会うのは、物理・化学的な法則には決して従属しないものである。だが、この物理・化学には、時間の経過とともに、「将来、この考えは実現されるかもしれない」という希望が吹き込まれる。こうして生理学的心理学は、「心理学は、生理学的原理によって処理されることになる」と言うに至るだろう。心理生理学にとり組む、ある有能な物理学者が、この方向性を決定的にした。ヘルムホルツは、われわれの周囲のものすべてを首尾一貫した様式で、感覚の性質にまで分解してしまう。

 この感覚の性質は、われわれが直感する最終要素で、独立した単位である。分離不能で不変、変化するのはその強度だけである。たとえば、赤と黄色の中間にあるオレンジ色への移行は、この二つの質の色が同時に作用するときにのみ現れる。

 こうしてヘルムホルツは、感覚の性質を外部の現象の記号とみなし、これだけで説明をする。現象を並行する感覚性質に引き渡してしまうのであり、外部の現象は永久に知ることはできない。結局は、「信じて行動せよ」という有名な教訓をもって、実際には生理学的心理学の破綻を明らかにする。

 もし、永遠の自然法則が、われわれの認識から切り離されるのだとすると、われわれの心理がその影響下にあるという理由は、まったく引き出せなくなる。

 ヘルムホルツがわれわれに求めるのは、われわれからは独立した自然法則が存在するとう仰である。この要請は受け容れられるかもしれない。平均的な思想家にとっていまや、力と物質に信が置けないとすると、これは妥当な考えに思えてくる。

 これまで、物理法則は仮説以外の何ものでもなかった。だがこうなると、それは、信仰教義としての権威を獲得し、小さな神のように熱心に布教されるものとなる。

 だがそうなると、研究はまったく不満足なまま放置され、信仰教義の上にすべてが構築されるとなると、教会の教説(Dogmen)以上のものではなくなってしまう。ヘルムホルツが感覚性質を現実の現象の主観的な記号とみなす以上、そういうことになる。

 この見方は魅力的ではあるが、必須の仮説では絶対にない。ヘルムホルツ自身が示すように、われわれの周囲にある対象は、感覚性質のうえに築かれる。そして、他の人間はこれらの感覚性質をもって対象を構築する。これらは、主観が使用する記号もしくは指標以上のものではない。つまり、独立した現象について何も主張していない。

 ヘルムホルツは、すべての対象はそれぞれの主観には別のものに見えることを認める。同時に彼は、現象の背後にある実在を求めようとし、これまでにいろいろ試みてきた。ただし先駆者たちとは違って、現象の背後に世界精神ではなく、物理学的な世界法則を想定する。これは好みの問題である。

 ヘルムホルツはつねに徹底した物理学者であり、その抜きん出た才能に導かれて、唯物論(Materialismus)に立つことになる。ただし、それは意に反して、物理学の威光を失わせる、彼が決して近づくことのなかった道である。

 主観を捨象することで、現象世界の背後の実在を探り当てようとする試みはすべて、世界を、それぞれの現象世界に委ねようとするものであり、そこから何も成果は出てこない。というのも、現象世界を組み立てる際、決定的な役割を果たすのが主観であり、現象世界の側に世界などないからである。

 実在はすべて主観的現象である(Alle Wirklichkeit ist subjective Erscheinung)。この偉大な認識は、生物学においても該当する。主観からは独立した因果論によって世界を探求することは、完全に無益である。なぜなら対象の構築がまったく主観に負っているからである。

 主観が構築する対象が現象である、という認識は、確かな伝統的な基礎をもっている。それはカントによって、すべての自然科学の体系の上に比類ない形で構築された。カントは、対象に対して人間の主観を対峙させ、基本原理を見つけ出した。これを受けて、われわれは精神によって対象を構築することになる。

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吉岡斉——若き日の志

再録:故・吉岡斉氏の追悼集が出版されるはずであったが、連絡がないので、ここにアップすることにした。

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 在野の生物学史の研究者であった私は、1976年4月から、三菱化成生命科学研究所に採用され、村上陽一郎・助教授(当時)の特別の計らいで、その夏から、東大教養学部の科学史・科学哲学(科哲)研究室に、出入り自由の扱いにしていただいた。この時代、東大駒場は、紛れもない日本の知の中心地のひとつであり、科哲(かてつ)はその一角を成す、光り輝く研究室であった。

 なんとかその一員として認められ、まわりを見渡すだけの余裕ができると、私のすぐ前を、恐ろしく切れる大学院生が独走しているのがわかった。本郷の理学部物理学科から転進してきた吉岡斉(1953~2018)という修士一年の院生である。彼が転進してきた1976年には、「東大科学史・科学哲学研究室ドクサ研究会」が発足し、手作り感のある、手書き原稿を製本した『ΔΟΞA(ドクサ)』の刊行が始まったところであった。その第2~3号に掲載された「科学者共同体とは何か——科学社会学の共通認識をもとめて(上、下)——」(Vol.1 No.2 & Vol.2 No.1, 1976~77)は、英米で展開されている新興の科学社会学についての、堂々たる総説であった。科哲の院生なら、この程度のものは軽々と書きあげて当然という気迫の、圧倒的な存在感のある作品であった。

 そうこうするうちに、中山茂氏(1928~2014)が若手の科学史研究者を集めて、日本独自の学問の成立や、戦後日本の自然科学の発展過程を研究するチームを組まれ、私にも声がかかった。こうして、物理学の吉岡氏と生物学の私は、自然とペアを組むようなかたちになった。

 いま振り返ると、二人の科学評論の力が鍛えられたのは、中山氏が、1981年1月~1984年3月の3年間、『朝日ジャーナル』の「文化ジャーナル」欄のなかに「サイエンス」を設けるよう依頼され、中山、藤原英司(自然保護)、高木仁三郎(原発問題)、吉岡斉、米本の5人で、これを担当したことではなかったかと思う。中山氏は、「こんど『朝日ジャーナル』の編集長になった筑紫哲也(1935~2008)がぼくの友人でねぇ・・・」と事情をもらした。

 毎月一回、築地の朝日新聞に集まって、科学部がとっている英文の科学雑誌、たとえば、Nature、Science、New Scientist、Bulletin of the Atomic Scientist、などを回し読みし、あれこれ議論をして執筆の順番を決めるのである。ただしほとんどの場合、早めに切り上げて、中山、吉岡、米本は、担当編集者と飲みに出ることになる。この時代、朝日新聞は本当に金があった。

 当初は匿名で、ペンネームは、中山→「龍眼」、高木→「かま猫」、吉岡→「聖」、米本→「天鼠」(コウモリの漢語)、であった。「聖」は「斉」の音をもじったものと思っていたが、いま考えると、ファンであった松田聖子からとったのかもしれない。調査旅行でツインの部屋で同宿したとき、彼は朝、歯を磨きながら「青い珊瑚礁」を口ずさんでいた。

 吉岡氏は、84年3月のこの「サイエンス」欄で、自らを「科学社会学の研究者」と規定している。ここからは、まったく私の推測になるのだが、この科学評論で高木氏と組んだことが、その後の彼に影響を与えたのだと思う。この場では当然、高木氏が原発問題を一手に引き受け、吉岡氏はそれ以外の巨大科学、具体的には、スーパーコンピュータ、宇宙開発、核融合などをとりあげたが、このときの体験から彼は、自分の研究対象から原発問題をはずすまい、と決心したのではないかと思う。

 そのことはまた、都立大学理学部助教授の職を辞して野に下り、原子力資料情報室を立ち上げた高木氏とは別の道を見出すことを強いられることでもあった。そして彼の結論は、あえてアカデミズム内部に踏みとどまり、原発という最重要の課題を素手でつかんで、科学社会学という学問的中立性と客観性を武器に、この課題について、政府・産業界が描くのとは別の像を、社会に向かって提供し続ける役割を、引き受けることであったのだと思う。

 吉岡氏は、原発は単純に商業ベースに委ねれば、その経済的不合理性から企業は自ずと撤退していくのであり、国策による介入はこれを歪めるだけ、という明確な認識にあった。そしてこのことを、「役人は必ず間違いをするものだから」と、ひねった形で表現していた。彼のバランスのとれた原発政策史の研究(とくに『原子力の社会史——その日本的展開』朝日選書、1999)は、政府側も無視できず、政府審議会の委員となった。これは、政府審議会を真の討議の場にするための、彼の戦略の勝利なのだが、彼はそれを「御用学者となりまして・・・」と自虐的に笑って言ってみせた。それはまた一面で、政治的課題から遁走するばかりの日本のアカデミズム研究者に対する、ウイットの効いた批判でもあった。

 先に触れた、24歳で書いた総説「科学者共同体とは何か」のなかに、すでに次のような一文が織り込まれている。

 「・・・今日においては、原発問題をはじめ、微妙な科学技術上のことがらと深く関係した社会問題は少なくない。そうした問題をめぐる論争で持ち出される「科学知識」は、限定なしの客観的事実ではあり得ないし、科学者・技術者もあらゆる先入見を免れた公正な審判ではない。それゆえ「科学知識」の性格と役割について、また科学者・技術者の置かれる状況について、周到な分析が欠かせないのである」(Vol.2 No.1, p.47 1977)。

 つまり吉岡氏は、若い時の志を生涯、爽やかに貫徹させた、本物の知識人であった。晩年の彼は、恐ろしく複雑な問題の渦中にあり、すこし孤独感を漂わせていたが、久しぶりに二人が会うと、専門分野が異なる気安さから、瞬時に、科哲時代の愉快な飲み仲間に戻ることができた。私にとって、大切な大切な思い出である。

写真は、1983年4月6日、中山研究会の合宿にて。左から、吉岡斉、米本、高田きよ志、河本英夫、中山茂の各氏。

 

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黙殺され続けた「フッサール=ドリーシュ問題」と、『バイオエピステモロジー序説』「あとがきに代えて」の再録

 

 

「フッサール=ドリーシュ問題」の発見
 昨年(2020年)12月、私は、これで最後にするつもりで『バイオエピステモロジー序説』を書いたのだが、実際に本にしてみると、どうも納得がいかない。登ろうと思っていた山の頂に、いざ立ってみるとさらにその奥に、本当に登りたかったのはあの高まりなのだ、と確信させる峰が、つぎつぎ現れるのだ。いまは、20世紀精神史を総括する視点から、もう一冊、『生命科学の危機と21世紀の自然哲学』という本を書こうと思っている。
 言うまでもなく、このタイトルは、E・フッサール(1859~1938)の晩年の名著、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を踏まえたものである。20世紀の哲学に決定的な影響を与えたフッサールのこの代表作のなかには、エンテレヒー(Entelechie)という言葉が3回登場する。これらすべては、人類の内発的な秩序創造という意味で用いられている。いまのフッサール研究では、この言葉は、アリストテレスの文脈で解釈するのを、定番としている。むしろ、フッサールほど大学者が、たいへんまずい概念を不用意に用いた例外と見なし、見なかったこととして、通り過ぎるのが普通である。

 だが当時、この言葉は、H・ドリーシュが提案したものであるのはまったくの常識であった。加えてこの時代、「科学の危機」と言えば、その一端は、H・ドリーシュ(1867~1941)によってもたらされたことも自明であった。実際、ドリーシュの自伝には、1912年(ベルリン)と1914年(ゲッチンゲン)のドイツ心理学会で、フッサールとドリーシュは幾度か討議をし、その後、非常に親しくなった、とある。だから次の本では、同時代人である「フッサール=ドリーシュ」問題を明らかにしたうえで、現象学的方法論を現在の生命科学に適用することで、「薄い機械論」の脱構築に向かいたい。

 いまの私に課せられているのは、20世紀前半にフッサールが構築した超越論的現象学の枠組みを、現在の生命科学に適用し、われわれの自然哲学的地平を一新させることだと思う。それを、バイオエピステモロジーの言葉で表現すればこうなる。フッサールは、われわれが「人間的近傍」に住まうことを運命づけられている事態を踏まえ、その上で、われわれの世界把握のあり方について研究しようとした。そのためには、人間の世界把握についてメタ的視点に抜け出るのが良いのだが、これは原理的にできないため、メタ的視点にぬけ出る直前の斜面に、これを語るための哲学的な枠組みを構築し、その上にいっさいの自然科学を基礎づけようとした。それが、「超越論的現象学 die transzendentale Phänomenologie」であり、この視点を明確にあらわすために、たくさんの言葉を重ねた。人間中心主義的な世界観のなかで、われわれの認識のあり方の解明を目指したのである。

 

 この次作へのつなぎとして、『バイオエピステモロジー序説』の「あとがきに代えて」の項を再録しておく。なお、この文章は、本ブログの「バイオエピステモロジー入門 その1」を全面的に組み込んだものであることをお断りしておく。

[終章の最終部分から]
 若かった遠い昔、いつか登りたいと心に決めた山の頂きが、かすかに望める地点にたどり着いたようである。それは、まだ誰の視界にも入っていない未踏峰で、標高すら定かでない。嶮しい尾根の肩や、遠い峠にも這い上がり、その頂きの位置と登坂ルートを確かめながら、少しづつ距離を詰めてきた。いま、取りつき点と思える長大な尾根の末端にたどり着いた。モレーンのかげに平らな場所を見つけて、ささやかなベースキャンプを設けようと思う。

あとがきに代えて
 信じてもらえないかもしれないが、いま振り返ると、一九七一年の秋の時点で、私は、J・ワトソンの『遺伝子の分子生物学』(1965)と、H・ドリーシュの『有機体の哲学』(1909)の二冊を、同時に同じ目の高さから読み込んで、一書にまとめることが、真の科学的生命論であろうと、漠然とだが感じていた。この時、京大理学部生物科学系の学生であった私は、どう取り組んでいったらよいのか皆目見当もつかないまま、この巨大なテーマを大学批判に重ね、一生涯、在野で考え抜こうと決心した。こうして郷里に帰って、証券会社で働き出した。この間の事情は、拙書『独学の時代』(NTT出版、2002)に書いておいた。
 いまとなっては、もう説明不可能なのだが、一九六〇年代の末、私も含め、学生たちはみな、ものすごく怒っていた。大学は解体されるべきであり、いまある学問すべては根底から見直されるべきだ、と信じた。
 このとき、京大教養部の生物学教授であった吉井良三(1914~1999)は、『洞穴学ことはじめ』(NHKブックス、1970)で、おおむね次のようなことを記している。京大教養部のバリケードの中では、反科学という名の下に自主講座が開かれたが、その中に「反分子生物学」というのがあった。これは聞きたかったが、教官であるため、バリケードの中に入れてくれなかった(同書、p.169)。
 あれだけの犠牲を払い、真摯な議論をしたのだから、分子生物学批判を前提とした研究は、当然、認められるものと信じて、生物学系のコースに進んだのだが、大学紛争直前の一九六六年に新設された京大理学部生物物理学科は、どうも、アメリカで爆発的に研究が進んだ分子生物学を、日本に導入するための一つの拠点として置かれたものらしかった。だが私としては、客観的に見れば「目的論的」と形容するしかない生物の発生過程と、目的論の概念との関係に決着をつけなければ、前に進めないような気がした。
 しかし、そのようなことを口走れば、「その議論、危ないなぁ」という声にたちまち囲まれ、生気論の入り口にいるこの若造を正道に戻してやろうとする、集中攻撃の的になってしまうことがはっきりした。京大理学部という空間は、反生気論の牙城であったのである。このとき、たった一人、私の疑問を正面から受け止めてくれたのは、山梨大学から転任されてきたばかりの、白上謙一(1913~1974)教授であった。
 白上氏は、亡くなる直前の論考でこう述べている。
 「ドリーシュは言う。調節胚の各細胞の運命は、全体におけるそれらの位置の函数である(Philosophie der Organischen, Vol.1, p.80)。このことの意味を考えつづけて来た筆者に、今年、京大を卒業していまは株屋さんに勤めている米本昌平君が、たいへん、示唆に富む意見をきかせてくれた。
 ドリーシュのエンテレヒーとは、いまのことばでいえば、情報性ということではなかろうか、と。
 情報は、そのキャリアーとして物質を必要とするであろうが、それ自身は物質でも、力でも、エネルギーでもない。空間の内にあらずして空間に働きかけるなどという、禅の公案のような表現さえも、物質の世界には何ら有限なものを投影しないところの、筆者のいい方によれば、それと一点において直交(強調は米本)する世界に属するものだとすれば、きわめて妥当な表現であろう」。
 「本当の生気論というものは、それぞれの時代における脳漿(のうしょう)の澗(か)れるほどの機械論的考察のあげくにおいて生れるものである。だからそれは、もはや、いかなる現実的な研究のプログラムをも約束し、組んで見せることができないのは当然である。それは文章のおわりのペリオッドのようなものである。たえずそれは取り除かれ、新しい文章が書き加えられていく」(白上謙一:WolpertのPositional Informationの周辺、『科学基礎論研究』、Vol.11, p.89~90, 1973)。
 これも『独学の時代』に書いたことだが、私の郷里でも会社員生活は四年で終わり、三菱化成生命科学研究所の中村桂子室長が主宰する社会生命科学研究室に、科学史担当の研究員として採用されることになった。これを機に、このときまでに目的論について考えたことをまとめたのが、「生而上学小論——もしくは応用進化抽象生物学をもとめて」(『知の考古学』No.10, p.52~55, 1976)である。
 私は、採用されたポストに期待されているであろう課題を手探りで探し求め、研究した。その結果が、優生学史と生命倫理の比較政策研究と、環境外交の研究である。ところが還暦になった瞬間、ほんとうにやりたかったことに、まったく手をつけていなかったことに気がつき、愕然とした。いま死ぬのは嫌だ、と切実に思った。そこで、ドリーシュの『The History and Theory of Vitalism』(1914)と、『The Problem of Individuality』(1914)の二冊を翻訳(『生気論の歴史と理論』、書籍工房早山、2007)し、それについて解説論文をつけ、ドリーシュ問題の重要性を指摘しておいた。これだけ明確に指摘したのだから、あとは誰かが取り組んでくれるであろう、との考えからである。
 だが間もなく、私が重要だと信じたことは私がやるよりない、という当たり前のことに気がついた。そこでまず、十九世紀ドイツの生物学の特徴から説き起こした『時間と生命』(2010)から始め、以降、十年をかけて三冊めの今回の本『バイオエピステモロジー序説』(2020)にたどり着いた。学生時代に夢みた本が、半世紀後に実現するというのは、なんとも不思議な感じである。
 ところが、結論をまとめていて、とんでもないことに気がついた。私のこれまでの思索の旅は、三菱化成生命科学研究所を作った、江上不二夫(1910~1982)博士の研究構想の一つであり、江上所長が組み立てた仕掛けに、私はみごとにはまったのではないか、という見立てである。

 私の記憶では七〇年代末までは、研究所の隅々にまで江上不二夫所長の精神がゆきわたっていた。たとえば、生命とは何か、という恐ろしく基本的な問いを真摯に問う姿勢が共有されており、研究者間で、ラジカルな質問を投げかけあうことは、たいへん好ましいこと、と思われていた。実際、科学史担当の私がふらりとある研究室を覗いて、ひどく素人っぽい疑問を口にすると、恐ろしく優秀な先輩や同僚たちは、みな待ってましたとばかり、最先端の研究状況を簡潔にまとめた上で、その問いに丁寧に丁寧に答えてくれたのである。
 こんなに贅沢な時間を、私は好きな時に好きなだけ持つことができた。なぜ、こんな特権が私に与えられたのだろ? いまとなってみると、どうも、このポストは、この稀有な民間研究所の中で、自ずと生命科学の認識論的課題に関心が向かうよう、仕組まれたものであり、それは江上不二夫所長の構想の中にあった、たくさんの仕掛けの一つだったと思うよりない。
 とは言え、眼前で日夜、精力的に展開される生命科学研究を、系統的懐疑の煉獄に投げ込むだけのエネルギーを、さすがに私個人はもてなかった。やはり、私が還暦を迎え、残る時間を逆算する立場になったことが決定的である。

 思い通りに書いた原稿を、自分の金で思い通りの本にする……。こんな禁断の悦楽を覚えてしまった。もう、中毒の域である。これまでの自費出版の業務を快く引き受けて下さった、(有)書籍工房早山の早山隆邦氏に心から感謝する。受けとった原稿にはいっさい感想をはさまないという、有能この上ない編集者にとっては、まことに酷な当方のお願いを最後まで守っていただいた。
 私にとっては、思索をめぐらすことこそが大切である。思索の内容を、いつか誰かに伝えたいとは思うが、それはいま生きている人たちでなくてもよい。ひどい対人恐怖症であり、周囲を説得しよう、説明しよう、とすることは、はるか以前に断念してしまった。それは若いとき、自分の考えたことが全く周りに伝わらない、巨大な壁ばかりであるのが分かったとき、そういう現実の中で生きていくために、私が獲得した知恵であった。人に説明しようとして挫折するが分かっているのなら、そんなことに充てる時間もエネルギーも無駄である。それは苦痛でしかない。
 しかし、「それから眼をそらし、背理であるからというので、現代の科学では説明できないから、というので、強引に否定し、無視し去るのが、知性的なのか?」(小松左京『果てしなき流れのはてに』ハルキ文庫版、1956、p.29)。ただ私は、「怠惰な真理より、勇気ある誤謬の方を好む人間」(梅原猛『地獄の思想』1967、p.ⅲ)でもある。そして、『論語』にこんな言葉あることを思い出した。「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」。
 今回は、次の句で終わろうと思う。

 俗論は潮騒のごと雲の峰

      『中曽根康弘句集』(1985、p.102)

 

  二〇二〇年 盛夏        町田にて 米本昌平

 

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再録:中村禎里の開いた世界・生物学と社会

『生物学史研究』(No.92 2015年9月、p.64~70)「シンポジウム・中村禎里と冷戦期日本の生物学史研究」を、再録する。

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中村禎里が開いた世界・生物学と社会
米本昌平

1.中村禎里氏との出会い
ここに1枚の写真がある。1975年6月、同志社大学で開かれた第22回日本科学史学会の2日目(6月8日)、大会の看板を前に、生物学史の関係者10名が集まった記念写真である。最後列の左から、里深文彦(1942~2010)、中村禎里(1932~2014)、筑波常治(1930~2012)の3氏と、右端に28歳当時の私が写っている。私の右腕が筑波氏の前にあるのは、生物学史の関係者で写真と撮ろうということになり、私は加わってよいものか迷って、離れた位置にいたのを、「君、そんなところにいないでもっと寄れよ!」と、筑波氏がぐいと私を引き寄せたからである。私は、左手に持っていた荷物を置く暇もなく、それを背中に隠して、皆と一緒に写真におさまった。満面の笑みをうかべる筑波氏の反対側には、中村禎里氏がいた。

当時、私は郷里の証券会社で働きながら、通勤電車の中とわずかな休日の時間をみつけて、やっと手に入れた生物学史の資料を必死になって読む、素人研究者であった。この学会は、私が初めて挑んだ他流試合であり、そんな地方の一会社員である、日曜研究者からすれば、中村禎里氏は、生物学史の一大権威であった。
地方の理科少年であった私は、反権威・反中央・反官僚の牙城と信じて、京大理学部に入った。だが2年目の冬に、思いもかけず大学紛争(当時は大学闘争と言った)が勃発し、目の前の大学は、一転して、潰さなくてはいけない旧体制に変わった。そして、思い知らされたのは、石を投げても大学は変わらない、という単純な事実であった。だが、あれだけの犠牲を払った以上、絶対に何かが変わらなければならないし、変わったはずなのである。
私は、生涯、大学の人間と同じ空気を吸うことはしまい、と心に決めた。だれが稼いだ金かわからない税金を、自分の好奇心と業績のために何の痛痒もなく消尽する、無神経で傲慢なこの種の人間を呪い潰してやろうと思った。そのために考え出した戦略は、ごく普通のサラリーマンが、自分の時間と資力だけで、大学の研究者と同格の研究業績をあげ、一般人でもこれだけのことができるのに大学研究者はざまは何ごとか、と批判し続けることであった。しかも単なる反体制ではないことの正当化論として、真理を探究する権利は個人にあり、これを行使する者は、国の研究費削減を主張する立場にある、と考えた。こういう角度からの批判に曝されてはじめて、大学は良い方向に変わっていくはずなのだ。
私は当時の若者がそうであったように、手負いの狼のような眼をアカデミズムに向け、隙あらば攻撃しようと身構えていた。大学教官が敵であることはもちろん、これにすり寄る大学院生も同類であった。そのなかで、なぜか敵意なしに話ができたのは、山梨大学から京大動物学教室に転任されたばかりの、白上謙一(1913~1974)教授ただ一人であった。この間の事情は『独学の時代』(1)に書いておいた。その白上教授が、「こんなものもあるけど、もっと皆勉強しないとねえ・・・」と示されたのが、『生物学史研究』の一束であった。当時、私は、科学史研究は科学の現状批判としてのみ意味があると考えていたから、眠ったようにみえる『生物学史研究』の論調にひどく落胆した。
こうして目論見通り、郷里に帰って就職し、ハンス・ドリーシュの資料を読み始めた。そして、1974年2月に、東工大で開かれていた生物学史分化会の月例会で、「ドリーシュの生気論」というタイトルで発表した。研究会の後、大岡山の駅前の居酒屋でビールを飲んだが、この時はじめて、中村禎里氏にお会いした。
このとき氏は、「僕は生物学史では、白上先生の押しかけ弟子でね、君と僕とは兄弟弟子だな」と言われた。
これ以降、ときおり上京して月例会に参加するようになり、研究会後の酒席で中村禎里氏と同席するようになった。ところが私の方は、中村氏を、在野の研究者がぶつかるべき生物学史の大権威と一方的に決め込み、あれこれ議論を挑んだ。そんな空気を見かねて、筑波氏がわざと中村氏と私の間を割って席をとることもあった。だが程なく、これは私の一人相撲であることに気がつき、態度を改めた。
1975年9月初めに、中村禎里氏から、三菱化成生命科学研究所で生物学史専任の研究者を公募しているので、これに応じるように、という電話をいただいた。この間の事情も『独学の時代』に書いておいたが、私の方は、そもそも市井の研究者として一生を送る覚悟であり、そのように人生を設計し、自ら退路を断ったつもりであった。だから、生命研の応募資格をまったく満たしていなかった。しかし、中村禎里氏に説得されるかたちで応募すると、不思議なことに、書類レベルで数十倍の採用試験に通り、本社人事部の承認も、難産の末、採用が決まってしまった。こうして私の人生は、思いもよらぬ方向に転がり始めた。中村氏が無ければ、いまの私は無い。
ただし、科学史の研究者としてはかなり遅いスタートである。そして、私の生命研採用が決まったら決まったで今度は、米本はアメリカ帰りの一流の研究者ばかりの中でやっていけるのか、と心配してくださった。
私が属すことになった社会生命科学研究室は、中村桂子室長・主宰の下、当時アメリカで激しい論争を引き起こし始めていた「遺伝子組換え論争」を、室員が一丸となって追いかけていた。これには心底、驚いた。しかし考えてみると、遺伝子組換え論争は、生物学と社会との間にまったく新しい形の問題をもたらすことは明らかであった。私は科学史担当ということで、まだ傍系の議論であった優生学史を研究のテーマに選んだ。
東大教授の恫喝——優生学史研究を始めたころ – ニセ仙人山籠り (heteml.net)
この時、1970年に『生物学と社会』(2)という本を出された中村禎里氏がどのような論を展開されるのか、研究室の人間が関心を払っていた記憶がある。

2.『ルイセンコ論争』の本人評価と「生物学と社会」
広義の「生物学と社会」という観点からも『ルイセンコ論争』(3)が、中村氏を代表する一書あることは論をまたないであろう。ただし当初、本人はこれを研究成果とは考えなかった。新しい事実を発見したり発掘するのが学術研究という、旧来型の価値観にたっていたらしい。初版あとがきの冒頭にこうある。
「この著作は私の研究成果といったたぐいのものではない。そうとうのエネルギーを費やしたのだから苦労はしたが、著作のねらいや内容からいうと一種の“白書”である。戦後日本の科学思想史で重要な位置をしめるルイセンコ論争の全貌をまとめ、のこしておこうと、私は考えた」。
だがこうして書きとめられた、スターリン主義と生物学、海外における論争の受容とその拒絶、科学研究と党派性、進化論の問題、ミチューリン運動の消長・・・という諸課題が、広義の「生物学と社会」でなくて何であろう。敗戦直後から、10数年にわたって繰りひろげられた日本でのルイセンコ論争について、この時点(1960年代前半)で分析の対象としようと決断することがいかに大変なことで、その作業がどれほどエネルギーを使い神経をすり減らすことであるかは、いまでは想像すらできない。論争の当事者の大半が存命であるどころか、第一級の現役研究者であり、研究者間の利害や思想的対立が激しかった時代である。この場合、唯一許されるのは、原資料を徹底的に集め、これに厳格に依拠しながらバランスのとれた総括的記述に撤する、科学史という立場である。そしてこれに成功するか否かは、全当事者がその成果物に対して、近過去についての妥当な著述であると、無言の同意を示すか否か、の一点にかかっている。そして中村氏の初著作である『ルイセンコ論争』は、この関門をみごと突破したのである。
中村氏は30年後の再版のあとがきで、この本の成立事情を明らかにしている(4)。本の原稿はできたが、どこの出版社も引き受けてくれず、教師のボーナス1回ぶんをはたいてタイプ印刷したものを、岡部昭彦(1929~2013)、筑波両氏が、書評でとりあげてくれ、それがみすず書房につながったこと。そして日本のルイセンコ論争を語るためにも、戦後日本のマルクス主義科学論争史の執筆を準備していたこと、である。
この書かれなかったマルクス主義科学論争史は、別の形で取り組むべき、残された重要課題である。敗戦翌年の1946年に成立した民主主義科学者協会(民科)が成立した。その設立発起人には、朝永振一郎や天野貞裕(後の文部大臣)など、文系理系を問わず、幅広い研究者が名を連ねたが、多くはマルクス主義者であった。民科は、民主主義化の政治を重視しため、組織としては次第に衰退していくが、共産党を離れてなおマルクス主義である科学者が長く影響力をもち続けた。この時代に京大動物学教室の大学院生であった岡田節人(1927~2017)は、少なくない大学教官が、ルイセンコ派にたつイデオロギーの時代であったことを述懐している(5)。民科生物部会とイデオロギー問題は、冷静かつ包括的に分析されるべき課題である。
近年、地学では泊次郎著『プレートテクトニクスの拒絶と受容』(2008)(6)という労作が出た。これは、民科とは別に、1947年に地学団体研究会(地団研)を組織して地団研の天皇といわれた井尻正二(1913~1999)の存在によって、プレートテクトニクス理論の、日本への受容が大幅に遅れた事情を扱っている。この中で、中村禎里氏の成果に依拠しながら、政治イデオロギーと地学理論の関係がルイセンコ論争との対比で考察されている。

3.大学紛争の評価
『ルイセンコ論争』で確立させた、徹底的に原資料に沿う、考えてみれば科学史家としては当然の、だが実際にはたいへん難しい研究姿勢は、その後の中村氏の人生を貫いている。マルクス主義科学論とは別に、中村氏の視界には科学者運動があった。だが4歳年長で、早くから物理学史で実績を積んでいた広重徹(1928~1975)が、1960年に『戦後日本の科学者運動』(7)を著していた。中村氏はこれに続く1960年代の科学者運動を、『危機に立つ科学者――1960年代の科学者運動』(1976)としてまとめたが、「あとがき」にあるように、これは気が進まない作業だったらしい(8)。書かれたものから中村氏の考えを推し測ると、氏の原体験にある九州大学時代の学生運動に重なるような、戦後日本の科学者運動という枠組みが辛くも有効なのは1960年代半ばまでであり、1960年代末の大学紛争から問題の次元が変わった、と感じざるを得なくなったのであろう。
中村氏の気持ちに引き寄せると、自らが体験した学生運動と1960年代末の大学紛争、とくに東大闘争の質に、生理的な違和感があったからだと思う。と言うもの、『危機に立つ科学者』では東大全共闘の扱いが相対的に小さい上に、このような記述があることである。
「東大全共闘の組織形態は中央集中を排し、自発的出退無定形をむねとしており、この点でベ平連運動と軌を一にしている。東大ベ反戦の運動思想と東大全共闘の思想とのつながりはさらに直接的である。・・・ベ反戦の最首悟、山本義隆などは、やがて東大全共闘連、助手共闘、全共闘のリーダーとして姿をあらわすことになる。ただし、東大全共闘などのばあい、個人の自発的連合体としての性格は、ノンセクト・ラジカルの視点からみた一種の理想型的な面もあり、全共闘後期にはとくにそうであった」。
最後の表現が何を意味しているのか、いまの人には、理解不能であろう。これは、東大安田講堂籠城に対する婉曲的な批判である。要求と闘争の形を考えることなく、理想主義的な理屈だけを膨らませ、端から自爆とわかっている道を選んだことへの、運動の下位の者に対する配慮の無さに対する批判である。もっと言えば、つねに東大が不可避的に負わざるを得ないエリート臭に対する、氏の生理的な嫌悪である。ただしこの時、京都という地方の学生であった私には、彗星のように現れた東大全共闘議長・山本義隆という名は、遥かに見上げるまぶしい存在であった。その東大全共闘は、自己批判から自己否定へと突き進み、最後は東大解体を叫んだ。この誠実でラジカルな論理展開に、私は完全に魅せられた。
中村氏は、大学紛争という体験を踏まえた上での科学技術のあり方を論じることが、死活的に重要であることを認めながら、その理論的枠組みはいまだ成熟していないか、行方不明であると、考えた。そういう考えの一端が出ているのが『現代の科学・技術論』(1972)の「あとがき」である(8)。この本は、中村氏が一世代若い研究者とともに、大学紛争後に改めて科学技術を論じるための立脚点を求めようとした著作である。その「あとがき」を、中村氏はこう結んでいる。
「若い執筆者たちが、大学闘争をひとつのあらわれとする自らの世代的体験を思想化することによって、科学技術論に新しい視野をもたらすよう、私はかねてから期待していた。ムード的議論はおそらく充分以上にすでに世に出ているが、学問的説得力をもった仕事は欠けていると考えていた。本書の企画は、このような不満をみたす好機であると私は考えたのである」。
ただしこれ以降は、中村氏は狭義の科学史や科学論から手を引かれることになる。
いいだもも(1926~2011)が中心となって1979年に発刊した『季刊 クライシス』は、1980年7月に、柴谷篤弘(1920~2011)、中山茂(1928~2014)などが声をかけて、山形県姥湯温泉で、科学技術論に関する理論合宿を行った。若手の中に、高木仁三郎(1938~2000)や、吉岡斉(1953~2018)や私がいた。主催した側は、中村氏にも声をかけたとは言ったが、やはり参加されなかった。ただし、その時の論集『季刊 クライシス』4号に、この時期の中村氏としては例外的に、「ミチューリン運動回顧」という一文を寄稿された。その中にこういう表現がある(10)。
「知識人を私の基準で品格区分すれば、変革実践家が上品、カタカナ英語で危機をうれうる思想家は中品、何もせず言いたい放題、大の字になり寝そべって妄言多謝などとうそぶいている私ごときは、もちろん下品」。
自らを最下段に置くことで、この種の科学技術批判の試みそのもの――クライシスというカタカナ英語――に対する、明確な皮肉である。これは、知的社会全体が真綿で首を絞められたように沈滞したままにある現状に対して、わが身を含め、やり場のなさを素直に吐露したもの以外の何ものでもない。そして同時に、中村氏の、われわれ後進に対する底知れぬ優しさは、かつての激しい学生運動の体験の裏返しであった。

4.残された課題、そして冷戦科学という視点
中村氏は、1970年代初めを境に、狭義の科学史と科学社会学の研究から離脱されたように見える。そしてこの前後に、生物学も生命科学へと看板を変え、内容も体制も大きく変化し始めた。氏は、確実に実証されることしか文字にされなかったから、意識的に語られなかったことこそ、後生に託された課題と考えるべきであろう。
戦後日本の科学が被った社会的な諸課題は、広重著『戦後日本の科学運動』、中村著『危機にたつ科学者』、同『ルイセンコ論争』の三書に、集約されているのだと思う。科学の体制化と、科学とイデオロギーとの桎梏である。それから半世紀が経ち、科学そのものも、その環境も激変した。半世紀後のわれわれが、この三書から受け継ぐべき最重要の点は、科学に対する対等な目の高さである。
いまのわれわれは、巨大なセクターとなりおおせた現代の生命科学に対して正面から向き合い、これに根源的な批判の目をむける努力を怠ったってきた。半世紀前まで、生物学は物理学に対して劣等意識があった。数学的な一般理論を確立させていない、記述的な段階にとどまっている、という理由である。それを強烈なかたちで表現したのが、柴谷篤弘著『生物学の革命』(11)であった。その後、生物学は、柴谷が示唆した分子生物学革命を経ることで、物理科学と同格であるという意識を獲得し、今日の地位を既成事実化したのだが、この過程で、生物学史は分子生物学を啓蒙する側に立ち、いまなおその意識の下にある。つまり、“生物学史 vs 生命科学”と並置したとき、生物学史は、生命科学がその成果だと主張するものを拝跪する立場になおある。
比喩を用いると、小説について第三の立場からこれを批判し分析するのが文学であり、大学には多くの文学部がある。翻って、現代や近未来の社会にとって、小説と科学のどちらがより影響力をもつかと問われれば、それは科学であろう。しかし、いまの日本に、科学と対等の視点からこれを論評する知的活動は、ほぼ皆無である。伝統的な科学観に立てば、科学はつねに体系的懐疑にかけられているべきであり、それこそが真理性を保証するものである。残念ながら、現在の生命科学の内側に内在的批判のエネルギーがあるようには見えない。であるならば、科学史・科学哲学がその機能を担うべきなのだ。穏便な表現をとれば、現在の生命科学のあり様を系統的に精査し論評する(ドイツ語でいうKritik)視点に、意図して生物学史は立つべきなのだ。
例えば、現在の生命科学は分子生物学の上に築かれたと言うが、その実態は“生化学の圧勝”でしかない。それは、科学哲学で言う、いわゆる分子還元主義ではない。生命的自然の承認手続きとして、対応する分子もしくは分子的変容を捉えないかぎり、科学的真理としては認めない、というのがいまの生命科学である。これは、生命的自然を生化学へ転写するという手続きをもって、科学的真理とする自然哲学に立っていることである。こういう生命科学の実態について、生物学史は深く掘り下げて考察すべきであろう。
また別の課題としてあるのは、戦後日本の意識の中で、冷戦という事態を米ソの国際関係で理解し、冷戦を実現させた巨大な科学技術体系についての科学史的・文明論的な視点について、恐ろしく希薄であったことである。これは、広重・中村世代の視野には入ってはいなかった。事実、広重徹の『戦後日本の科学運動』では、スプートニク・ショックは、ほんの一行(p.110)、触れられているだけである。だが、1990年代に発表された、主にアメリカの科学史家による冷戦研究によれば、スプートニク・ショックこそが、アメリカが核兵器体系の構築に科学技術を大動員することになった直接のきっかけであった。科学技術を含め、20世紀後半の世界を決定づけたのは冷戦であったのであり、少なくともこれに関する研究を咀嚼しないで21世紀を論ずることは、大きな欠陥をかかえていることを意味する。
最後に、いま一つの大きな課題は、科学研究の一般社会への解放である。かつての中村禎里氏には、科学研究への参加は絶対平等であるべきだとする理想主義があった。さすがにこのような考え方は、いまではあまりに現実離れしたものである。しかし、研究活動を職業研究者の占有から一般の人間へも開放し、その面白さと苦しさの両面を味わえるような状況へ道筋をつけることは、21世紀人に課せられた使命であると思う。
中村氏は、自分の思いが理想に過ぎることは承知のうえで、それをさらりにと述べられ、それがまた、清々しくもあった。そういう志をこそ、われわれは受け継ぐべきであろう。


(1)米本昌平『独学の時代』NTT出版、2002年
(2)中村禎里『生物学と社会』みすず書房、1970年
(3)中村禎里『ルイセンコ論争』みすず書房、1967年
(4)中村禎里 「30年を経て――アマチュア研究者とスターリン主義」『日本のルイセンコ論争』みすず書房、1997年
(5)中村桂子・編著 『生命研究のパイオニアたち』化学同人、2007年
(6)泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容』東京大学出版会、2008年
(7)広重徹『戦後日本の科学運動』中央公論社、1960年
(8)中村禎里『危機にたつ科学者』河出書房新社、1976年
(9)中村禎里・里深文彦編『現代の科学・技術論』三一書房、1972年
(10)中村禎里「ミチューリン運動回顧」『クライシス』4(1980)55
(11)柴谷篤弘『生物学の革命』みすず書房、1960年

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再録:ネーゲリの主著をもっていた!

ミネルヴァ書房は『究』という宣伝誌を出しているが、その2015年6月号の巻頭エッセイ「書物逍遥」に、私は、「ネーゲリの主著を持っていた!」という小文を書いている。それの内容を少し拡張して、再録しておく。

『究』2015年6月号の巻頭エッセイに補足。
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ネーゲリの晩年の大著『進化論(由来説)の力学的・生理学的理論』(1884)

私の書棚に、羊皮背表紙の、厚さ5cmの洋書がある。40年ほど前、東大正門前の井上書店で、衝動買いをしてしまったものである。一見して、19世紀末の欧州で出版されてものと判る装丁で、当時の私の研究テーマとはまったく無関係であるのは明らかだったのだが、無理して購入した。確か、2万円だったと思う。考えてみると、井上書店に並んでいた生物学史関係で気になる本は、ほとんど買ってしまった。
最近これが、C・フォン・ネーゲリ(Carl Wilhelm von Nägeli:1817~1891年)の主著、『進化論(由来説)の力学的生理学的理論 Mechanischi-physiologische Theorie der Abstammungslehre(1884)であることに気がつき、仰天した。巻頭の右肩には、Dr. C. ISHIKAWA の青色のゴム印がある。東京大学理学部動物学講座の最初の日本人教授となった、石川千代松(1860~1935)の所蔵本だった。石川は、19世紀末に、A・ワイズマン(August Weismann:1834~1914)の研究室に出向しているから、この折に購入したものに違いない。ネーゲリは、ミュンヘン大学の植物学の教授で、植物細胞の研究では一大権威であった。だが当時、ブリュンの修道院長を務めながら交配実験を行っていたG・メンデル(Gregor Johann Mendel:1822~1884)が、ネーゲリに論文別刷りを送っても、まったく評価しなかったため、科学史上は、真理を圧殺した旧権威として、たいへんに悪名高い学者ということになっている。ただし、最近では、このような読み方は適切ではないことが明らかになっている。
過去のそんな事情から、この本は、まず読まれることはない。しかも、日本にはほとんど入っていないようなのだ。東大は関東大震災(1923年)で図書館が消失し、その再建のために世界中から本が寄贈された。だから東大には、19世紀末~20世紀初頭にかけて、思わぬ種類の書籍や雑誌が多数入っているのだが、ネーゲリのこの本はない。日本の他の大学や公的図書館も所蔵していないから、これは貴重な資料であることになる。
実は19世紀の生物学には、「実験」という発想はなかった。当時の生物学の重大関心のひとつは形態形成であり、成体の形がどうして作られるのか、観察結果に矛盾しない解釈のための理論を提示することが、生物学者の役割だと考えられていた。今日のように実験をしても、それは生命現象を攪乱させることにしかならなかった。今日的な意味で、生物学における実験操作を正当化する哲学を築きあげたのは、W・ルー(Wilhelm Roux:1850~1924)である。ルーが樹立した実験哲学は、20世紀に入ると生物学の全領域に浸透してゆき、その形態を一変させることになった。そのため、彼は、1908年にノーベル医学生理学賞の候補にノミネートされて以降、1924年に死去して受賞資格がなくなるまでは毎年、その候補に挙げられた。
ネーゲリは、この本で、イデオプラズマ説という、形態形成に関する遺伝・発生理論を提案している。ところがこの本には、イデオプラズマ説と分子との関係について考察した、大変に長い補論がついている。つまりネーゲリは、たんに、ひとつの遺伝・発生理論を提案したのではなく、生命現象のすべてを物理・化学によって説明し尽すことを企て、実際に試みたのであった。そしてそれは、19世紀後半のドイツ生物学の精神の結晶ともいうべき、知的挑戦であったのである。
このことを、21世紀の日本の社会にどう伝えたらよいのか、思わぬお宝を手にして、考えあぐねている。

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再録・中村桂子さん——人と仕事


 2019年に、藤原書店が、『中村桂子コレクション』(全5巻)を出版したが、私はその『月報 3』(2019年10月)に「中村桂子さん——人と仕事」を書いた。その全文を再録しておく。
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中村桂子さん——人と仕事

 ついに、中村桂子さんのことを書くことになった。なんとも落ち着かない気持である。というのも、私は、1976年に三菱化成生命科学研究所・社会生命科学研究室という名の、中村さんが主宰する研究室に、文字通り拾われ、中村さんが1989年に転出されるまでの13年間、私の上司であったからである。その後まもなく中村さんは生命誌研究館を立ち上げられた。
 近しいといえば、私にとってたいへん近しい人なのだが、それをいいことに、中村さんの考え方は、だいたいわかっているつもりであった。
 これもまた私の悪い癖なのだが、ある日、ふらりと、初期の生命誌研究館を訪ねたことがある。その研究館に足を踏み入れたとたん、ああ、中村さんがやりたかったことはこういうことだったのか、と瞬時に得心がいった。そして、うろたえた。
 いくらたくさん文章を書いても、また、口をすっぱくして繰り返しても、伝わらないものは確実にある。それを伝えるためには、実際に形にしてみせるよりない。そのためには、その考えに共感して金を出すスポンサーが現れないといけないし、実際にその考えにそって形にされるものを、ごく当然のものとして受け入れ、未来に向けて行動する人たち(その代表が生命誌研究館のスタッフたち)がいて初めて、簡単には言葉では伝わらない、この場合は「生命誌」なるものの実体に、われわれは出会うことができる。
 実は、この文章を書くために、書棚の山から『生命誌とは何か』(講談社学術文庫)と、『自己創出する生命』(ちくま学芸文庫)をみつけ、ふたたび精読してみたのだが、多くの人は、中村さんの柔らかで平明な言葉遣いに惑わされ、誤読するのではないかと心配する。
 中村さんは、分子生物学から生命科学へと進み、1980年代以降、生命科学の現状に不満をもつようになり、最後に生命誌という概念にたどり着いたと、その過去をさらりと説明するのだが、この穏やかな表現からは、現在の生命科学のあり方に対する厳しい眼差しといらだち、そして、生命について徹底した考察の末であることが、きれいに拭われている。
 そもそも中村さんは、DNA二重らせんモデルの発見者の一人である、鬼才・ワトソンの問題の書『二重らせん』の翻訳者であり、そして何よりも、ワトソン・他著の『遺伝子の分子生物学』、同じく『細胞の分子生物学』という分子生物学の二大教科書の監訳者である。おそらく、分子生物学というものの精神とその本質について、中村さんほど知り抜いている日本人は、他にいないと思う。その上で生命誌という概念を提唱することの重みを、ほとんどの読者は読みとれないのだと思う。さすがに養老孟司氏だけは、『自己創出する生命』を、「女性の書いた思想書」と喝破したらしいのだが・・・。
 私が初めて生命誌研究館をのぞいたときの衝撃は、生命というものへの素直な好奇心を全開にし、それをそのままに切り出し、啓蒙でもなく、教育でもなく、論文投稿のための実験でもない、確信に満ちた知的活動を、そこに直感したからである。生体分子さえつかまえれば、それだけ、生命の真理に接近するものと、自らに信じ込ませて全力疾走をする、現在の生命科学本流との空隙を埋めようとする行為に、不意に出くわしたからである。
 生命とは何か、を納得するという頂に至るルートを、中村さんは、王道である生命科学研究の成果を再編するという表の登山道から、また私は、人気のない科学史という裏道をたどって、同じ山頂からの眺望を目指しているのだ、と一方的に思い込むことができ、心を少し強くしたところである。(『月報 3』、p.1-3)
                                                   

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