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L・ボルツマン(Ludwig Boltzmann:1844-1906)によるこの講演(原題は「Der zweite Hauptsatz der mechanischen Wärmetheorie」で、ボルツマン著『Populäre Schriften』,1905, p.25-50)は、1886年5月29日に、カイザー・アカデミーで行われたものである。
原子/分子仮説に立って、熱力学第二法則を直観的に考察した講演である。十九世紀ドイツの自然科学者にとって、“自然哲学”的な思索をたいへん重要なものであった。この講演は、素朴で時には武骨とも見える表現のところもあるが、十九世紀末における分子観が、素直に反映されている。現在の科学者の目には、思弁的で無意味な論考に映ってしまうが、バイオエピステモロジーの視点からすると、理想気体を前提することが当然視されていることはきわめて重要である。
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皆さまお集まりのこの会議では、私に自由な機会が与えられ、私が科学的訓練の面でこの会議にお世話になったこともあり、私が引き受けるべき名誉ある困難な義務を承知しております。ただ、それを引き受けるには、ためらいもあります。そこで、私の課題の選択について謝罪を述べることを、ご容赦いただきたいと思う。このような事情は、哲学者や歴史家であれば出版を考える類のものである。しかし自然科学の場合、いわゆる哲学的・形而上学的な一般的課題については、講演する傾向がある。今日、私はこの慣習に従っているが、現在の自然科学が投げかける多くの特殊な課題に対して、この一般的な課題が大して意味がないとか重要でないとか、という疑いをもっているわけではありません。ただし、これまでのその扱われ方の種類と様式に関して、私は多く機会に、それらは誤っているように見えると明言してきた。つまり、独特な個別領域における課題は多くの場合、大いにやりがいがある一方で、一般的な問題では、その成果に張りつめた達成感が伴わないことが多いのである。前者の場合、主要な論争では、主な事実に関して一致が確保されているのが普通であるのに対して、後者の領域では、激しく対立する意見の主張者の間で、多くの場合、まったくそういうことになってはいない。個別問題では意見が一致し、いっしょに研究ができるのであるが・・・。
自然科学においては、証明された真実ほど、直線的で簡潔な表現のものはない。しかしたとえば、司令官が敵の町を攻略しようと考えたとき、彼は、地図上の最短の道をとるわけではない。むしろ勝つためには重要な戦略として、多様で不自然な回り道をとり、道からかなり離れた村々を襲う。難攻不落の場所は武力で封鎖してしまう。一方、自然科学者はそのようなことは考えない。彼らに重要なのは、どの問題かではなく、どれが即刻解けるものかが重要であり、小さくても確実な進歩が得られるものに向かう。錬金術師が、もっぱら賢者の石を捜し、金作りの技術を手に入れようとしているかぎり、その試みにはまったく成果はない。表面的に価値のない問題を取り除くことが、化学を創造へ導く。自然科学がその視野から、巨大な一般的問題への関心を失ってしまえば、素晴らしい成果に連なることはない。その一方で、個別な特殊領域の藪の中で、骨の折れる鍵に出くわし、それによって隙間が突然、開かれ、それまで予想もしなかった光景が全体に展開する。
ガリレオが作成した落下側溝や、ステビンの鎖は、力学が、物体の外的関係だけではなく、物質と力の本質へ浸透する、強力な支点となりうる。また、化学者が日々発見する注目すべき事実には、原子論(Atomismus)に関する多くの新しい証拠が見られる。ジュールの試みは、仕事・動因・運動エネルギーの本質に関する古典的な論争に、最終的な決着をもたらした。そして、ここで言う巨大問題とは、次のようなものである。われわれはどこから来たのか? われわれはどこへ行くのか? 過去、千年にわたって、われわれの精神的英知はこれまでに変わったのか、これからも変わるのか、について天才たちが議論してきた。いくつかの局面で、明白な本質的進歩があったのかどうか、その結果について私は知らない。そこようなことについて、今世紀(19世紀)には、ハトや他の家畜の飼育、飛行したり遊泳する動物の色調についての、慎重な研究や比較研究によって、毒をもたない動物の目を見張るような擬態に関する研究、虫媒花の花の形についての骨の折れる比較研究などによって、確かな事実が集まった。こうして、それまであまり意味のないように見えていた地味な研究領域が、本質的な成果を手に入れることができ、このことがまた、科学史上比類のない成果を迎えたことで、形而上学の領域に兵を進める確かな作戦基地になりうるのである。
シラーは、この時代の研究についてこう言っている。「問うべき真理は、網や棒によって駆り出されるのではない。精神の進歩とともに、ゆっくりと現れ出るのだ」。もし彼が、現在の物理・化学の武器庫を一瞥したとしたら、カオス状態にある道具箱をもって真理を捕捉できるのか、どれほど深刻に受け取るのだろう? 併せて、今日の鉱物学者・植物学者・動物学者・生理学者らの働く場所はどう映るのだろう? 私は、それぞれの道具に、新しい様式の自然の力を生み出すための単なる装置ではないものを見出すのであり、深い畏敬の念を抱く。もっと言うと、私はそこに、モノの存在の秘密を暴くための、真の装置を見出す。そこには、巨大なカーテンの向こうに隠れているどんな絵を評価するのかという、画家が直面する類の問題が、たくさん横たわっている。専門家は求められると、自身の技術を誤魔化すために、カーテンを説明する絵を指して、「カーテンそれ自身が一つの絵だ」と答えるものなのだ。もしかしたら、存在の謎へと誘惑するベールを、われわれはカーテンとして描いているかも知れない?
自然科学の実験装置を、現実的な利益を得るための道具と見なしても、それによる利得はまったく認められない。だが予想外にも、科学と技術を結合させて人々の眼を現に驚かすような不思議すらも凌駕する、われわれの先祖がおとぎ話の中で魅せられた夢物語のようなものが手に入った。数百年前の印刷技術の発明の付随効果として、人間・モノ・思考の間での交流によって、文明が高まり、拡大するのを、独特の方法で支援したのである。人間精神に、前に進もうとする目的を与えたのだ! だが、操縦できる飛行船の発明が、この時代の主題に当るのだろうか。私は、これらの獲得物は、今世紀に刻まれた特徴ではないと思う。もしこの百年間を、蒸気の世紀、あるいは、電気の世紀と呼ぶと言われるが、そして私の考えを問われれば躊躇なく、力学的自然理解(mechanischen Naturauffassung)の世紀、ダーウィンの世紀と呼ぶべきだ、と答えよう。
こんな告白をする私だが、あなた方に細い課題に注目するよう求めることを、ご容赦いただきたい。そして大きな一般的課題を脇に押しやり、現在とはあまり関係のない問題に私がとり組むことに、冷ややかな目を向けないでほしい。多くの聴衆は、ある狭い専門領域の課題以外、まったく関心がわかないないかも知れない。しかしそんな時代にあっても、死すべき一個の人間が、科学諸分野のすべて、もしくはその大半を理解することができない事態など、とおの昔のことになった。今日では、一定の専門領域に限るだけことだけではなく、狭い領域に限ること自体が禁止されるようになった。それによって、さまざまな専門領域の相互理解が常に密接になった上に、これまで敵対していた分野が視野から消え、これまでなかった分業が拡大したため、未知の領域を暫定的に一瞥するというのは、残念ながらなくなった。
かつて自然科学は、全体として二つの主領域に分かれていた。そのうちの一つは、記述的な自然科学と呼ばれ、もう一方、具体的には物理学・化学・天文学・生理学など、そして自然科学に数えられる数学・幾何学・力学を含め、結局、理論化された自然科学と呼ばれるべきとされている。そのため、当然のことながら、自然誌的な専門分野は、長い間、その使命に関する早とちりの限定的な呼び名に抗議してきた。地質学や生理学が飛躍的に発展し、またダーウィン説が幅広く受容されたことによって、これを生物の形態に対する説明と同じ様に、鉱物の形態の説明に対しても大胆に適用してみせるべきだろう。だが同時に、別の面で、抵抗感のある変換が生じることに、注意を払うべきだろう。キルヒホッフは高度の明確さをもって、力学の使命に関して、次のような包括的な主張を行った。すなわち力学の使命とは、自然現象を、極力、簡潔でかつ見通し良く記載することであり、個々についての説明は断念することである。そしてこの後は、事実のまったくの記載として、物理学全体の中で速やかに、繰り返し、説明とされるものに関連づけられることである。ここには、説明という概念に付随する非決定的部分を避ける意味もある。力による運動、物体の本性による力、物体の現象そのものが説明するというのであれば、ここでの説明で、説明されるものは、眼前にある原理ではない、すっかり新しいものの上に還元されるのを要求することになる。この考え方は自然科学にとって、異端的なものである。ここでは、単一もしくは同種の構成要素からなる複合体は失われ、複合的な法則は基本的な法則へ還元される。こういう過程が成功するのであれば、自然はこれで終わりという状態には止まってはおれない、というのが一般的になる。もし、さらに単純な基本法則を見つけることに成功したとすると、さらにこれを説明し基礎づける、より単純なものに解体できることになり、このことは、人間の知性の限界を見つけようと努力することでもある。それは、最小要素の存在を想定しないことであり、最小要素には還元できないことである。そしてそれは、先に言及したカーテンのことなのだろうか? それは、カーテンの影に挿み込まれた、決して掬い取れないイメージ(Bild、表象)によって、われわれの視覚の限界を見つけることなのだろうか? われわれは、まずこのような視点を考え方の基盤にしっかり持つことによって、「説明する erklären」という言葉の意味を保持できるはずである。
われわれは、感覚から得る印象によって、モノの存在すべてを推理する。だから科学の輝かしい勝利は、知覚の大半を除去した、大量のモノの存在を解明することに由来している。実際、天文学者は、残余のかすかな光から、この地球より千倍、百万倍大きい、信じられないほどの距離にある、無数の天体の存在を確信し、それらを解明する。天文学の観察は、形而上学の面でも依拠している観測装置、具体的に言えば、古代エジプト人の単純な照準器から、ガリレオやケプラーの望遠鏡、さらにはアルワン・クラークのまだ名がない巨大装置に至るのだが、この目録はまったく不完全なものである。大スケールの天文学で起こることは、また最小の世界でも同様にうまくいくはずである。観察はすべて、その微小なモノに相当する数百万の球体の感覚がわれわれに呼びおこすものである。われわれは、それを原子・分子(Atome und Molekule)と呼ぶ。ただし、原子の研究には、天文学の場合より不都合な点が多い。われわれは、天体をいつも地球と同じように考えることができ、その大きさや集合状態や温度などは、多様な状態にあり、金属が溶解した状態であったり、巨大な灼熱のガス球であったりするが、それらはスペクトル分析によって厳格な根拠が示される。
しかしわれわれは、原子/分子の状態についてほとんど何も知らない。そうである以上、感覚を通した観察可能な事実から仮説を組み立てることができるまでは、何も知ることはできない。奇妙なことに、天体研究においてスペクトル分析が強力な証明となったように、ここでも、技術の成果に期待することになる。個別の微小物体が存在し、その微細な物体の同時作用が、感覚的に真理と思える物体を形成するというのは、もちろんまったくの仮説である。単なる仮説であるという点では、われわれが天体を見ると、大きく広大な物体の世界が生来するが、その根拠も、私をはなれてもなお、喜びや感覚を感じる人類がいるというも、また、動物や植物や鉱物など自然物が存在する根拠も、同様の仮説である。もしかすると、天体現象に対する今日の天文学の説明は信頼性に欠けており、星は火花に過ぎないとする仮説の方が、ましなのかもしれない。もしかすると、原子仮説もまた、信頼性がないと排除されることになるのかも知れない。
こういう主張が導出可能な論拠はすべて、所を得たものとは言えない。ここで天才的なトムソンの学説を引き合いに出すまでもないのだが、彼は、1mm・3の水にどれほどの微粒子が含まれているのかについて、さまざまな方法を介してつねに一致した正しい数値をはじき出すのである。また、次のことに言及する必要もないだろう。多くの化学的事実は、原子仮説に立脚して、たとえば、気体の摩擦係数は温度に依拠することを計算で予測し、分散定数と熱伝導定数の絶対値および相対値の予測に成功した。これは、ルヴェリエによる天王星の存在の計算による予言や、W・ハミルトンによる円錐屈折の予想の確かさに、並びうるものである。これら二つの問題の内容を、ここで詳述するのは大して必要ないことだが、アカデミーの会員の名前はつねに明示しておく。前者の摩擦定数の計算を行ったマクスウェルの仕事に、手短に言及しておく。
マクスウェルの理論からは、次の結論が引き出される。気体状態にある運動する物体が受ける抵抗は、全階級の現象において、気体密度とは無関係である。これに従うと、それぞれの現象はこう特徴づけられる。すなわち、気体の質量は、運動体の質量を比較する際、まったく意味をもたない。これに従うと、それぞれの現象はこう表現される。気体の質量は、運動体の質量を比較する際、何の役割もない。このことは、これまでの観察から言われたきたこととは逆である。われわれは常に、希釈状態よりは、密度の高い空気における抵抗の方が大きいと見てきた。だから、この結論は端から誤りに見える。抵抗が密度に依存しないのなら、もし密度がほぼゼロである場合、気体は存在しないことになる。このような問題すべてから、マクスウェルは逃れられない。それで彼は、ともかく計算結果を公表し、その後、誤りと見える計算結果は、むしろ矛盾をはらむ帰結として信ずべきものと本心を吐露した。それ以来、さまざまな現象群に属す観察の失敗は、ここに押しつけられることになった。そして、単にマクスウェルは信用できないからという論法の圧力で、この誤りは補正されることになった。この場合、気体密度に依存しない抵抗の限界の内側では、隙間が小さすぎると、抵抗は無くななり最終的にはゼロになる。そこでは、気体が存在しないことになり、マクスウェル法則の妥当性の限界を事前に定めておく理論で、これまではうまくしのげたことに、まったく矛盾はない。
原子論は次のような仮説に密接につながっている。物質世界の個々の要素は、決して静止しているのではなく、壁に対する建設足場のように、互いに固く並んで物質を形成しているのではなく、活発に運動しているものと考えられる。熱の力学理論と呼ばれるこの仮説は、このような事実の上に立つ見解である。その単位と数値は、R. マイヤーによって、エネルギー保存則として非常に明確に表現された。これは三つの形をとることができる。第一に、可視的な物体の運動、第二に、熱、すなわち最小粒子の運動、そして第三に、仕事、つまり、引き合う物体を離したり、反発する物体を近づけること。第三の形は理解しにくいように見えるが、磁気や電流の仕事率がヒントになる。これらは、構成の面でさまざまな形態をとるから、無意識のうちに、運動の役割として、肉眼では見えない分子の熱振動を考えたり、光エーテル(Lichitäther)という未知の媒体の運動という、これまで立てられたことのない仮説にその本性を委ねることもある。反発するモノを近づけたり、引き合うモノを離すことは、このような媒体のなかで運動を増大させるはずのものであり、そのため、可視的な運動や熱運動の総量が減少するのは不思議ではない。仮説の媒体中で一部分が変化するのである。逆の場合には、この反対のことが進行する。このように、一般的な原理から、すべての現象は容易に推論できる。つまり、熱、可視的な運動エネルギー(lebendige Kraft)、仕事の三つは、相互に生産され、変換することができ、つねにその総量は一定で変わらない。
一般的な原理である熱の力学的理論としては、これに沿って、これを厳格に限定する、いわゆる熱の力学理論の第二法則が存在する。これは次のように表現される。仕事と可視の運動エネルギーは無条件で相互に移行し、無条件で熱に変換する。ただし、逆方向の場合、仕事もしくは可視の運動エネルギーにおける、衝撃時の熱の他への変換は、まったくないか、その一部だけが可能である。この原理は、第一法則の出発を煩わしいものに近づけ、その多くの結論を扱いにくいものにする。われわれの目的に沿うエネルギーの形態はつねに、仕事か可視の運動エネルギーである。生(なま)の熱現象は、われわれの手の間をすり抜け、われわれの感覚から逃れ、われわれにとっては静止しているのと同然である。だから、熱というエネルギーの形態はしばしば、分散・劣化したエネルギーと表現され、それゆえに第二法則は、エネルギー劣化の進行と結びつき、最終的には、仕事をしうるすべての張力と、物質世界におけるすべての可視的な運動として落ち着くことになる。
万有宇宙を熱的死(Wärmetode)から救い出そうとする、どんな試みにも成功はない。私は、それが可能であるなどという期待を持たない、そのような試みは決してしないことを申し添えておく。
私の意図するところはもっぱら、第二法則を、別の角度から、いささかでも明らかにすることにある。分子の熱運動の確からしさは、必ずしも、隣接する大量の分子自体の運動状態から提示されるのではない。むしろ、独自の軌道を不断にそれぞれの分子個体の、相対立する運動の影響として表出する。(p.34)このことは、次のように言うことができる。これら構成要素の独自性は、物体の外的な現象として、ただちに表出する。たとえば水平な金属棒の場合、その左右の末端では、分子が活発に振動してより熱くなるに違いない。ガスの場合は、ある一点に対して多くの分子が向かい、突然、濃度が高まることがあるであろう。こういうことにわれわれは決して気づかない。それは他でもない、大数の法則と言われるものである。
よく知られているように、ブックルは以下の次のことを統計学的に証明した。十分な人数について考えれば、自然に生じる死亡や疾病の数値だけではなく、いわゆる自由意志による行動、たとえば一定の年齢における結婚、犯罪、自殺などの数は、それらの外的条件が本質的に変化しないかぎり。ある水準の数値が完全に保たれる。このことは、分子の次元でも同様である。ピストンにかかる気体の圧力としては、ある分子は激しく、ある分子は柔らかく、ある分子はまっすぐ、ある分子は斜めに、ピストンに衝突する。しかし、衝突する分子の数が大きいため、圧力の総量はつねに一定であるだけではなく、ピストンの見えるか見えないかの小さな部分に、等しく平均的な強さで衝突する。もし、ある場所の圧力が他より強いことがわかれば、ただちに、分子がその位置に集中的に向かう外的原因を調べることになる。もし、ある物体の系のエネルギーがある水準に維持されているのであれば、そのエネルギーは他の状態に恣意的に変換されることはないし、別の確からしい形態に移行することもありえない。その物体の系のエネルギー分布が、当初、確率法則に一致しないものだったとすると、遅かれ早かれ、それに向かうことになる。ここで、われわれが、あるエネルギー形態が実現することを望んだとしても、それは現実のものになりえない。たとえば、物体が全体として運動していると想定してみる。この場合、分子すべてはそれぞれに、ある方向にある速度で運動していることが要請される。われわれは、分子すべてを独立した個体として把握しようとするのだが、それは想定しうるものであっても、あり得ない事態である。相当数の独立した個体を、みな同じ様にそれ自体の進行にゆだねて考えることは、どれほど困難な作業であるかはよく知られたことである。無条件の使用可能性を手にするという、われわれの最大の目的は、すべての個体の運動をこの形に合致させることによってのみ実現する。この合致からの逸脱それぞれが、エネルギーの劣化である。このような不一致は、真の力学的な仕事におけるエネルギー形態ではありえない。これに対して、化学的な仕事の場合には、ともかく確率法則に見合った原子の混合が生じうる。
これまで、劣化したエネルギー形態と呼んできたものは、もっとも確率の高いエネルギー形態のことに他ならない。言い換えれば、もっとも高い確率の分子の分布のことである。ある量の白い球を考え、そこにほぼ同量の黒い球が加えられたとする。最初は白い球を、またある時には黒い球を手にとることになる。次にそれを手で混ぜて、互いの位置に影響を与え続けると、ある程度、時間が経てば、すっかりごちゃまぜになって、サイコロを振るのと同じ事態になる。それは、こういうことである。周囲より熱い物体[分子群]があったとする。それはすなわち、遅く運動する集団のまん中で、早く動く分子の大きな集団があることになる。初めは、熱い物体[分子群]は冷たい周囲と接しているのだが、確率法則に従った速度の分布になる。温度の差異はこのように相殺されていく。ただしわれわれは、このエネルギー分配の過程に、それ自身では形成されることのない迂回路をはめ込んで、所与の非確率論性を活用し、他の非確率論性を根拠とする生産を行う。言い換えれば、われわれは、熱い物体[分子群]から冷たい物体[分子群]へと熱を変換させる機会に、熱が移行する部分を、見える運動の形に、もしくは仕事を変換させる。これが、圧力機械もしくは一般的な熱機関という形として現れる。
同様なことは、エネルギー分配の過程が当初、確率法則に従わない場合、たとえば、物体[分子群]がその周囲より冷たい場合でも、あるいは、一方の側で分子が隙間なく詰まっていて、他方の側が薄く散漫な気体の状態でも、毎回、このことは生じうる。ある容器の下半分に窒素が、上半分に水がつまっており、ともに等温・等圧だったとすると、この分布は確率原則に従っていないから、すべての分子は、白・黒の球の場合のように、均一な混交に移行することが期待される。気体の混交は直接的に生じ、モノの落下に似て、異なった暖かさの物体[分子群]の間で、温度は直接的に貸し出されて、温かさは仕事には利用されない。ただし、この二つの気体に迂回路を設けて、それによって含まれている熱の一部を、目に見える運動や仕事に利用することは考えることができる。実際、レイライ卿が初めて、これが実現できることを示した。
個々の気体においては、すべての分子が同じ速度をもっているわけではなく、大半は同じ速度なのだが、他の分子は遅く、中くらいの速度のものもある。マクスウェルは、初めて次のことを示した。すなわち、さまざまな速度は、測定によって状態を決定しようとするとき常に生じる観測誤差に正確に対応することである。この二つの法則の一致は、自然の偶然によるものではなく、両者それ自身が、確率法則によって決まるものだからである。気体の分子すべてが、それ自身の速度をもっているとしたら、エネルギー分布は確率法則の内容から逸脱してしまう。そのようなエネルギー形態は、実際にはこれまでに提示しえていないのだが、それでもなお、熱いものから冷たいものへ熱が移行するような、ごく普通の温度の移行が、あり得ないエネルギー形態を生むきっかけになりうることを、われわれは、アプリオリに主張しうる。
まったくありえないエネルギー分布が、場合によっては存在しうることは、確率論的に質的に示せるだけではなく、その系の力学的条件が既知であるという仮定に立てば、当然、厳格な確率原理に従う確率計算によるエネルギー分布を組み立てることも許容される。クリース(Kries)の言う、当面の方向性の論理的基礎、フライブルクのモールによる確率論の原理に関するものである。各々のエネルギー分布は、そこから、数量的にその確率が決定しうる。その最重要の作業は、クラウジウスによって、理念的に、エントロピー量として名づけられた。以降、われわれはこの言葉を使用する。クラウジウスが示したように、すべての変化においてエントロピーは増大し、それ自身によって進行する。エントロピーは、他の系がより多くのエントロピーを増大させたときにのみ、小さくなりうる。最初、温度の違う物体[分子群]が二つあり、その後、両者の温度は均等に達するとする。その将来の状態の確率を計算すると、二つの物体[分子群]の温度差が有効であると、移行する熱のどれだけが仕事に変換しうるのか、確率論的に正確に計算できる。火をつけられた石炭や、燃える石炭ガスのように、最初の温度差が常温より非常に大きい時にのみ、熱変換のすべてが仕事に変換できる。これを数学の形で言葉にするとこうなる;無限の温度から終局の温度に変換し、最終温度ですべての熱が仕事に変換する。無限に高い温度というのは、無限にあり得ない状態のことである。すべての分子の運動はますます同じになっていく。別の表現をすれば、見える前進運動する物体[分子群]は、無限にあり得ないエネルギー構図のことである。見える運動とは、あたかも無限に高い温度の熱のように振る舞い、それはすべて仕事に変換する。
機械とは、自由使用できる力の助けによって、負荷を克服する装置である。機械では、負荷の力に同等の重さが維持されているかを、われわれは常に算定する。この場合は、実際に作業に利用されることはない。均衡が続く限り、力がいささかも大きくなることはないから、その負荷も寸毫も変動することはない。熱論(Wärmelehre)ではもっぱらアナロジーが用いられる。われわれは、エネルギー変換を常に目で見て認識するが、その際、エネルギー分布の確率はそのままにある。それは、可逆的な状態変化と呼ばれる。確率はつねに同じままであるとすると、逆の方向にも同じように進行しうる。ある方向にも逆方向にもまったく進行しえないのであれば、同じ重量の場合であり、もちろん、その負荷は力で動かすことはまずできない。システムの状態がそれ自体の確率で進行する場合にのみ、エネルギー転換は起こりうる。しかし、確率の差異が非常に小さいと見なせる場合には、可逆的な状態変化を任意に生じさせることができる。圧力と反発力が完全に等しい時、熱理論家は、熱について、ある物体が完全に同じ温度へ移行することか、ピストンの後退を連想する。実際、第二の物体がわずかに冷たい時、反発力はわずかに小さいはずである。可逆的な状態変化は、さまざまな物体でさまざまな様態のものが考えられる。それらは常に、その特徴の間に不思議な関係をもって進行するが、普通、われわれはその関係を推測することはできない。これらの関係は実験を行えば、安定した規則性が現れる。具体的には、物体の圧縮-、温度-、膨張-係数と個々の熱との関係、体積変化と凝固の関係、圧力による融解点の変化(p.39)、膨張による蒸気の過飽和と他の特徴との関係、塩の可溶性・その個々の重さ・それが溶解した蒸気の状態との関係、物体の電磁的・熱的特徴との関係、結合熱・電磁力・その温度依存性との関係、などである。
一般に太陽は、動物や植物など生命はもちろん、さらには気象学的現象にとどまらず、アグロストリ(Agrostoli)の海流製粉所を除けば、地球上のすべての過程のエネルギー源である、と考えられている。
ヘルムホルツは、「石炭に由来する熱は、太陽の熱が貯蔵されたものにすぎない」と言う。しかし、非常に利用価値の高いこれらのエネルギー源に対して、われわれが、これらを十分に冷却するだけの使途の道を提示しえているか、私はわからない。われわれが直接手を触れる地表の物体にはエネルギーが貯蔵されているが、いったい、それがどれだけの量か、まったくわからない。ナイアガラ滝が生産するすべての熱が、われわれの機械の大半を駆動させるのに十分なのかも知れない。われわれの周囲にある物体すべてに、仕事に変換できる熱を保持させられるのであれば、尽きることのないエネルギーの貯蔵庫になりうる。しかし、手元にあるエネルギー状態では、太陽の作用による温度の不均等は生じず、エネルギーはほぼ確率論的に分布し、われわれの目的に適合するように分布させることがでない以上、そのようなことは不可能である。それに対して、太陽と地球の間は、巨大な温度差が支配しており、この二つの物体の間では、エネルギーは確率法則に沿って分布するようなことはない。二つの物体の間での、より大きな確率に向かう温度の均質化の傾向は、百万年単位の長大な期間、続くことになる。太陽エネルギーが、地球の温度にまで降下していく過程でとる二つの形態は、確率論からはかなり外れたエネルギー形態となり、ちょうど蒸気ボイラーの水分を冷水へと転換するように、太陽から地球への熱転換は、われわれが仕事遂行に利用できることになる。生命の普遍的な生存闘争は基本物質を求めての闘争ではない。すべての生命にとって、基本物質である空気・水・大地は、過剰に存在している。また、熱という変換不可能な形のエネルギーのためでもない。そうではなくて、エントロピーのための闘争である。エントロピーは、熱い太陽から冷たい地球へエネルギーが移行することで、自由使用できるようになったものである。このエネルギーの移行をできるかぎり利用しつくすため、植物は葉の表面を限りなく広げ、地表の平均温度が下がってしまう前に、太陽エネルギーを未解明の様式によって、現在の実験室の研究では予想もつかない化学反応系へと導いていく。そしてこの化学的な調理場の産物は、動物界にとって闘争の対象となる。
個別の場合で詳しく説明するとこうなる。ある物質系があり、そのエネルギー分布はつねに確率論に従うのだが、ある回り道があって、うまく機能するとそこでは、あり得ないエネルギー分布が現れるものとする。それは、あり得ないとは言え、自然のなかでは起こりえるのであり、ちょうどお気に入りの道を上手に運転するようなものである。ただし私は、誘われてもそのような芸当はできない。残念ながら私は、専門家だけが興味をもつ細部に魅かれることになり、一般的に重要なことのなかで、特定の分野に私は魅かれる。私はさまざまな機会に、一般的な物体ではなく、もっぱら気体について言及していることに、恐らく皆さんは気づいておられると思う。そしてこれからの議論は、以下のことが基盤となる。気体において分子どうしには非常に大きな距離があり、また、相互の間に取り上げるべき力はほぼ存在しない。そのため、気体に作用する外からの力は無視することができ、だから気体分子は実際、黒と白の球という形に書き表されることになる。この混交物は確率法則に従い、それは他からの影響で混乱することはない。容器の内側のおのおのの点[気体分子]は、それぞれ自身が、それぞれの方向に、同じ様に確率論的に振る舞う。それら自身は、さまざまな速度を持っている。だがまた、気体全体のエネルギーというものがある。ある分子の速度が大きければそれだけ、残りの分子の速度の選択の幅は限られる。つまり、個々の分子の速度は、常にあり得ない状態から、さらに極端にあり得ないものをとるとなると、気体全体が保持している運動エネルギーを考えると、残りの運動エネルギーはゼロになってしまう。おのおのの気体分子は砲弾のような速度で、1秒間に数百万回、互いに衝突する。われわれは、これらの物体の要素が、乱れて飛び回る、互いに近接した図を描くことができるだけである。しかしまた、われわれは、ちょうどロトゲームのように、それ自体は単純な分析を組み合わせて、その平均値を知ることができる。
流れ落ちる流体[水]と固い物体[氷]という、二様の水分子は、分子力(Molekularkräfte)の効力に由来する。実際、流体である水を、蒸気の分子から分離するのには、固有のエネルギー消費が必要である。水分子の間で作用する力は、二様の水分子が共存する確率論に従って当然、増大していくものと考えられる。
この力は、いま示唆したように、媒体にあるものとみられる。二様の水分子の分離は、媒体がもつエネルギーを増大させるはずである。もちろん、われわれは、このメカニズムをまったく知らない。ただし、普通の流体のエネルギーは、それ自身に生じる渦や輪の相対的な位置で変化する。媒体に含まれるエネルギーは、熱運動によって減少していく。二様の水分子の分離は、引力によるのではなく、それ自身の確率論的な基盤による。なぜならそれは、気体分子の大きな速度より、さらに上にあるからである。この分離を介して、水分子の熱エネルギーは縮小し、それ以降、残りの分子に許される可能なエネルギー分布の数は減少する。
ここで私ができるのは、最終結果へのかすかな道筋を描くことである。ある流体が閉じた大きな容器に入っており、内部の空間は完全には満たされていないものとする。その内部は非常にわずかなエネルギーしか保持されていないとすると、ある分子が分離するには十分ではないので生じないだろう。ただし、すべての分子は球体の状態を保持するに違いない。こういう状態は実際には実現しないのかも知れないが、すべてのエネルギーを消費して、液体の上にわずかな蒸気があるような、比較的少数の分子が分離することは十分起こりうるだろう。温度が上昇するにつれて、これらはますます圧縮され、液体はますます弛緩状態になっていく。ここで、別の極端な場合を考えてみよう。全体のエネルギーが、わずかなエネルギー量を超えてはるかに大きく、たとえば、二様の分子が媒体から離れて結合や分離を行ったり、これらの間を移行する程度の小さなエネルギー量ではなく、これらと比べれば消えてしまう(分子力の仕事は消失する)ほど大きく、そして気体が維持するあらゆる密度をとりうる、大きな質量の場合である。この場合、二つの状態の限界は「臨界温度 kritische Temperature」と呼ばれる。これより下の温度では、したたる流体と蒸気は存在するのだが、両者の違いはほとんどわからない。分子力の作用は、重力ほど強くなく、それ以上のものはほとんど同じであり、流動的か気体状態かは、二つの枝のように相互に流動的であり、言い当てることはできない。
二つの異なった液体を混ぜ合わせると、温度が上昇する。ただし、相互の引力が優勢である場合には、冷却に向かい、元に戻っていく。前者の場合は、流体自身で混交が進むが、後者の場合はそうではない。だが、前者の場合は流体ゆえに自ら混交が進むが、後者の場合は、ちょうど完全な分離のように、一定の混交は、黒と白の球で表現されるような確率論的な進行と信じ込むのは正しくない。ここでは以降、気体の場合、何らかの顕著な温度上昇を必ずしも伴うわけではないが、混交を含むものとする。したたる流体が交じり合うと温度が上するが、だが、それ自身で混交が進むと、冷却も生じる。だから、混交状態について優勢な確率計算には常に、揺れがつきものである。混交に向かう傾向とは、有効で優勢な凝集力にうち勝つことである。
[ここから、p.48、上から7行までのアナロジーは、意味がないので、省略]
(p.48、上から8行目)
それ自身、同じ確率状態には絶対に移行しえない物体の系があったとすると、その物体の系は、ただ確率に沿うのみであり、そのことは、その物体の系は、それ以降、さまざまな状態を駆け抜けるが、周期性が現れたり、初期の状態に戻るような体勢をとることはあり得ず、永遠に運動し続ける状態(perpetuum mobile)になる。ここで熱力学第二法則を思い起こせば、これが普通の状態であるという認識に至る。もし、物体の系の最終数からperpetuum mobileを形成しえないという公理に立つとすると、この公理は、第二法則という基本公式を意味しする。この公理の下では、世界は物体の最終数の巨大な系であることになり、この仮定によって世界全体はまた、perpetuum mobileたりえないことになり、これにはわれわれは驚くばかりである。われわれは、宇宙をそのように眺望するようそそのかされ、この見解は刺激的である上、時には疑問の余地のないものと提示される。しかし私は、自然の限界にまで広げるのは、経験法則だけであるべきだと信じている。
そこで原子の概念が、物理と化学の全領域で真の役割を与えられるのであれば、動物という生命現象、あるいはわれわれの思考や感覚も説明が可能性なのか、という疑問が、当然、生じる。私は、ヘルバートに言うように、いったい誰に向かって、“私 Ich”は単純な存在であると、疑問の余地なく言うるのか、見当もつかない。その一方で、感覚やすべての思考の要素は、確実に単純なものなのか? 私は、自分の意識存在をそうは言えない、と確信している。ここでは、感覚を完全に定義できておらず、われわれはただ、赤の感覚は青の感覚とは別物であるとは言いうる。しかし、この二つの要素が、何か意思の動きに対応する、多数の原子の複雑な移動があるとは言いえないのだ。われわれが赤いと感じるとき、その感覚である何かを、われわれは感じとることができないのである。
思考可能となる以前の、単純なものとして理解するよう、苦労して開発された構成物は、恐らく、われわれの感覚とはぶつかるものなのだ。だが私は、感覚を、科学的な問い立ての言葉の中から取り除くことができる。逆に、コペルニクスの同時代人の直接の意識では、地球は回転していないと感じられた。この直接的な道筋は、むろん、われわれの感覚から直接流れ出たものであり、それを介してわれわれは、いかにして宇宙の認識に達するか、を示している。しかし、これが目標に向かわないのだとしたら、われわれは、自然科学の採る道をとって返し、変更すべきである。こうして、われわれは仮説をたて、原子複合仮説を発達させ、同類の表象を拡大させている状況である。ここから、大量の仮説がさまざまな場所で生まれ、それらは生き物のように多くの部分に分裂し、それらにはよりよい生存条件を求めて移動しようとする傾向が内在している。
これらのことは、外部の状態、化学的状況、そして周囲の媒体・光・影などの運動に対する感覚を強く刺激する。これらの感覚は、痛みに相当するものから逃げるよう、遺伝を介して、絶え間のなく強制的に報告を生み、これを中枢部に結びつける。個体の内にとどまっている外の状況についての粗い記号は、すべて、外部の粗い現実に応じた内側の模倣への要求に沿って、数学者が大きさを任意の文字と関係づけるように、しばしば言葉の頭文字が選ばれるのだが、込み入った関係を表す記号へと発展する。個々人には、発展したそれぞれの記憶記号が手元にあるとすれば、それをわれわれは意識(Bewußtsein)と定義する。こうすることで、はっきりと互いに結びついた意識的な観念は、思考の内に貯蔵され、また、架橋によって無意識の反射行動を形成する。もし、意識はそういうものではまったくないのだとすると、いったい、われわれの感覚とは何なのか? だが私は、感覚という言葉を排除しかなかった。この仮説[原子仮説]が、関係するすべての現象を説明するのだとしたら、地球の自転がどのように起こるかという問題ともつながらなくてはならない。非常に時間がかかるが、唯一、解答可能な問いという道は、われわれの思考にとって最も単純な要素である感覚から、いかにして仮説に到達できるか、ということである。最後に、実のない形而上学にすり寄ることは、私の意図するところではない点は、明言しておかなければならない。ここで私の言うところのものは、少なくない面で真理とは一致しないのかもしれないが、すべて私の確信するところである。こうしてできるかぎりの努力を重ねることによってのみ、われわれは真理近くに到達することができる。ある詩人はまさにこう言っている、「疲れを知らない、長く続く創造の作業。それは、秒・日・年という時間を通した、大きな責任による、決して破壊されない、砂粒だけのための、永遠の砂粒の構築物・・・。」
もし、私の今日の講演が、自然認識の拡張にいささかでも寄与しうるのであれば、望外の喜びである。