木村資生氏の思い出(『中央公論』1995年1月号)

 本棚を整理していたら、1971年4月に、木村資生(1924~1994)氏が京大理学部で行った、集団遺伝学の集中講義用のガリ版刷りのテキストが出たきた。1968年に中立進化説を発表し、世界的な大論争の渦中にあったときである。
 かなり、書き込みがあり、めずらしく全部聴講したらしい。

 木村氏が亡くなったのは、1994年11月13日である。その直後に『中央公論』から2頁ぶんの追悼記事を依頼された。急遽、資料を集めて1週間ほどで書き上げた原稿が、ギリギリで間に合い、12月10日発売の同誌1995年1月号に掲載された。
 「木村資生氏は遺伝学に何を残したか」というタイトルの文章(同号p.106~107)を再録しておく。
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 進化の中立説で有名な、国立遺伝学研究所名誉教授、木村資生氏が逝去された。享年70歳。しばしば、第一級の自然科学者をさして、ノーベル賞級という賛辞が与えられることがあるが、木村氏の場合、これは単なる言葉のあやではなかった。ノーベル医学・生理学賞の受賞に、もっとも近かった日本人の一人であったことは、まぎれもない事実である。
 伝統的にノーベル賞は、第一に圧倒的な独創性を、第二に、重要な仮説を提出し、それが後に実証され広く認められるようになったものを、高く評価してきた。しかし最近では、自然科学が大型化し、プロジェクト化してきたため、このような古典的ともいえるノーベル賞のイメージにピタリあてはまるような研究業績が出にくくなっていたからである。
 木村資生氏は、1924年、愛知県岡崎市に生まれた。京都大学理学部時代に、タルホコムギの研究で有名な木原均教授の薫陶をうけ、遺伝学に興味をもった。当時の遺伝学は染色体分析が中心であったが、木村氏はまったくの傍流であった集団遺伝学を選んだ。数学を駆使する、その美しさに魅かれたのであろう。しかし日本では、この領域の研究者は極端に少なく、理解者も皆無に近かった。国立遺伝学研究所に職を得たのち、アメリカに留学して、集団遺伝学の大物、クロー教授の下で研究できたことが、大いなる自身につながったに違いない。
 遺伝とは、親の形質が子に伝わる現象である。ただし集団遺伝学の立場は、遺伝学としてはかなり異質で、親子関係ばかりか、個々の生物個体までをも消し去り、生物集団としての遺伝子の頻度とその世代間での変動を問題にするものである。学問としての骨格は、1930年代の初頭、フィッシャー、ホールデン、ライトの三学者によってほぼ完成された。だが、観察・実験・データ収集に汗水を流すのが王道と信じて疑わない生物学本流からは、小難しい数学をもてあそぶアームチェア学者と疎んじられることが多く、日本の学界ではとくにこの傾向が強かった。
 集団遺伝学にとっても、また木村氏自身にとっても、転機は1960年代に訪れた。分子生物学の爆発的発展である。DNAという遺伝の分子的実態が明らかになり、またこのDNAによって決められているたんぱく質の研究も一段と進んだため、さまざまな生物種の間で、これらの分子を比較することが可能になった。たとえば、赤血球のなかにヘモグロビンというたんぱく質がある。この分子を構成しているアミノ酸の組み合わせをいろいろな生物で比べてみると、これまで解剖学的な視点から描かれてきた進化の系統樹と、ことごとく一致した。
 問題はこの先である。木村氏が、このアミノ酸残基の変換の速度を計算してみた結果、驚くべきことを発見した。第一に、同じたんぱく質で見るかぎり、ほとんどの生物においてアミノ酸残基の変換速度は、ほぼ一定であること。第二に、この変換は特定の型があるわけではなく、ランダムであること。第三に、アミノ酸残基変換速度は予想外に速いこと、である。つまり、生物進化の定義が、「突然変異が起こり、これが何らかの理由で生物種のなかに広がって固定されること」だとすれば、少なくとも分子レベルでは、進化のほとんどは中立的なもの、という結論に達する。
 1968年2月17日号の『Nature』に掲載された論文「分子レベルの変化率」のなかで、木村氏はこのことを主張したのである。これによって大論争が巻き起こった。その要点は、一にも二にも、生物が示すあらゆる形質は何らかの意味で、ダーウィン的な自然選択の産物であることを信じて疑わない、古典的な正統派の進化論者からのものであった。科学界の本流を占めるキリスト教圏の研究者は、突然変異→自然淘汰というダーウィン説が、生物進化を説明できるほぼ唯一の学説であり、これが少しでも崩れれば、それだけ非科学的な生物創造説につけ入るスキを与える、と信じていたため、中立説に向けていっせいに、批判の矢を放った。
 これに対して木村氏は、中立説は生体を構成する分子の進化に着目するのであり、この次元ではもっぱら分子の生体内での機能が重要であること、他方、ダーウィン進化論は、生物個体の突然変異に対する環境の側からの淘汰が決定的な要因と考えるのだが、両説はまったく矛盾するものではないことを、断固主張し続けた。氏は、1983年に、その考え方を『分子進化の中立説』(ケンブリッジ大学出版)としてまとめたが、これが決定打となった。中立説に対する強力な批判者であったジョン・メイナード・スミスは、『Nature』の書評で、この本を、フィッシャーの『自然淘汰の遺伝理論』、マイヤーの『進化の原因』と並ぶ、進化論研究における第一級の書と評価した。
 私は、中立説の提唱直後の1971年4月に、「集団遺伝学概論」という名の集中講義で、トレードマークの蝶ネクタイをぴしっと決めた氏の講義を聞いたことがある。このとき氏は、世界的な論争の渦中にあり、孤独な闘士という雰囲気を漂わせておられた。氏は、自らの研究領域を分子集団遺伝学と呼んだが、結局、木村中立説は、現代生物学の一大革命である分子生物学の展開と表裏一体のものであったのであり、その膨大な成果の山に対して、思わぬ角度から統一的な解釈を与えるものであったのである。

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謎の人:柴谷篤弘

 2年前の秋、大学山岳部の同期が、妙高高原の笹ヶ峰にある京大山岳部ヒュッテに集まったことがある。そのとき偶然、ヒュッテの本棚に、『行く手は北山 その彼方』(北山の会「京都一中山岳部史編纂委員会」、2003)という、魅力的な本を見つけ、どうしても手に入れたくなった。その事務局にメールをしてみたら、なんと事務の責任者は、山岳部後輩で、剣合宿にいっしょに行った高鍬博氏だった。「非売品だし、在庫もない」ということだったのだが、高鍬氏は関係者の間を回って、まもなく私の願いをかなえてくれた。

 それにしても、こういう高校山岳部が存在するとは、仰天するばかりである。私のこころ奥深くに刻まれている、はるか昔に消滅してしまった愛知県立旭丘高校山岳部とは雲泥の差である。一片の嫉妬すら抱きようのない、まったくの格の違いである。
 荒神橋あたりから北を見やると、緑の北山がえんえんと重なり、そのはるか先には白い未踏の山々が控えているのではないか、という幻想に誘い込まれるような、独特の雰囲気があるのだが、それがこの本にはうまくとらえられて、詰まっている。

 ところがである。本をパラパラめくっていたら、とんでもないことを見つけてしまった。


左から4人目が柴谷篤弘、土倉九三、梅棹忠夫の各氏。同書p.251より

 後半の「第5章 京一中山岳部のことども」の「第2節 山岳部の黄金時代を築いた部員たち」の項に、柴谷篤弘(1920~2011:本名は横田篤弘)氏が、梅棹忠夫(1920~2010)氏らとともに登場し、大いに議論をしているのである。
 となると、柴谷氏は京都一中山岳部を通して、今西錦司(1902~1992)氏の山登り仲間の紛れもない後輩に当たる。ふつう、こういうことは自慢げに話すものなのだが・・・。
 だが、私が『進化論も進化する』の対談本で二氏にお目にかかったとき、二人はそんな素振りはいっさい見せなかった。そもそも、この対談が成立したのは、柴谷氏が『今西進化論批判試論』(朝日出版社、1981)を出版したのが理由なのだが、いざ二人を引き合わせてみると、なんとお互いに初対面であることを告白したのである。

 今西・柴谷対談は、当時、二条大橋の西詰にあった「ホテルフジタ」の庭の別邸で、2日間かけて行われた。ただし、1日目は議論はあまり進まなかった。
 柴谷篤弘という人は、文章上はたいへん押しが強いという印象なのだが、本当は、非常にシャイな人ではなかったかと思う。それにつけても、今西氏のまえで、あれほどまでに山の経歴を完璧に伏せた柴谷氏には、新しい謎が一つ生まれた気がする。


『進化論も進化する』(リブロポート、1984)より

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[再録]スウェーデン断種法とナチス神話の成立 ――戦後精神史から近未来への視程を求めて

 〔〕この評論は、かつて『中央公論』(1997年12月号)に、同じタイトルで掲載されたものである。最近、旧・優生保護法下で強制的に不妊手術を受けた方たちの補償問題が、広く議論されるようになった。遅きに失したとはいえ、当然の政策変更である。だが、当時の状況についての説明は、恐ろしく不正確で一方的なものが多い。この問題を語るには、戦後史について、バランスの取れた認識が共有される必要がある。そこで、一部の字句を修正した上で、21年前に書いたものを、全文、ブログとして再録することにした。いまの常識とは異なって、「優生学=ナチス社会=巨悪」という図式は、1970年代に成立したものである。また、他の3人の仲間と18年前に書いた『優生学と人間社会』(講談社新書)も再版になったので、できればこちらもあわせて読んでほしい。


『優生学と人間社会』2000年

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ナチス=優生社会=巨悪=という図式
 スウェーデンの新聞『ダーケンス・ニュヘテル』は、8月下旬の連載記事で、1935~1976年の間、スウェーデンに存在した「不妊法」によって、女性を中心に6万人以上が断種されていた、と報じた。しかしこのこと自体は、すでに91年に出版されたルンド大学のG・ブローベリ教授の研究書『優生学と福祉』で詳細が明らかにされており、さらに96年には、この研究を軸にして横に拡大した、スカンジナビア諸国における優生政策の比較研究報告、『優生学と福祉国家』(G.Broberg & N.Roll-Hansen(ed.) Eugenics and the Welfare State)も出版されている。その意味で、現時点でとりたてて大きく報道する意味があったか疑わしい対象であった。少なくとも先進国においては、優生政策が誤りであったことについては固い社会的合意が存在しており、もし現時点で優生問題について考察を深めなくてはならないとすれば、それは次のような命題なのだと思われる。なぜ、スウェーデンの歴代政府がかくも長い間、不妊法を存続させてきたのか。記者団の質問攻めにあった女性閣僚は、こうつぶやいたと伝えられる。
「私にはわからない。私の世代には説明のつかないことです。」(『朝日新聞』97年8月30日付)

Eugenices and the Welfare State』(1996)

 現代史研究の主課題の一つがここにある。
 有無をいわせぬ時間の流れは、個々人の意図や組織的な働きかけとは無関係に、われわれの意識・価値観・社会観・世界像を、日々のほんのわずか変質させていく。渦中にあるわれわれは、この微細な変化を意識することはまずない。しかし、10年たち20年たって振り返ってみると、現在との価値観のずれがいやでも目に映るようになる。さらに30年、40年と時間を隔てると、その落差は矛盾と見えるほど大きくなり、先人たちの行状を非難しなくてはならない事態も出てくる。この場面で歴史家は、現在からはひどく不合理とみえる過去の人たちの行動にも、それに見合った十全な理由があったはずだという大前提にたって、いまは消え去ったその時代の価値体系を提示してみせる責任を負っている。こういう慎重な歴史的検証を重ね合わせることで、現代史における誤りとされる事柄の概容が明らかになっていくのであり、歴史的責任論はその先にある課題である。
 ところが日本のマスメディアのほとんどは、このニュースをもっぱらナチス優生政策や人種政策との類似性だけを強調する視点から扱った。ナチス=優生社会=巨悪という図式を微塵も疑わず、この解釈の枠組みの連想ゲームとして、オーストリアでもやっていた、スイスでもノルウェーでもやっていたと、ことさらおどろおどろしく書きたてたのである。そしてその延長線上に、96年6月のわが国の優生保護法の改正問題が置かれることになる。
 それにしても、日本の大新聞のほとんどが、戦後史をかくも無神経に、のっぺりとした平板なものとみなし、過去の事例を一方的に弾劾することで、何か社会的に有意味な警句を発したかのような錯覚に陥っている事実をみせつけられたことは、ほとんどスキャンダルと言ってよかった。消費されるためだけの一過性の話題作りをし、それが売れればそれでいいという志の低さである。
 あるいは、このような安直な解釈図式の受容は、日本の知的セクター全体の知的怠慢と鈍感さの、反映とみるべきなのかもしれない。その一因には、自分たちが生きた時代である以上、おおよそはわかっているはずだという思い上がりがあるのであろう。しかしそのような無神経さは、過去を弾劾するという行為を媒介に、自らの立場を絶対善に置き替えてしまうことと等値でもあり、真の意味での歴史の教訓をくみ取りえない地点へと流されることでもあるのだ。この知的鈍感さは、20世紀が終わろうとしているいま、日本の知的セクターが今世紀における最重要課題と対峙し、血みどろになってこれと取り組むだけのエネルギーと誠実さとを、まるで有してはいなかったことの兆候なのかもしれない。日本での議論は、あたかも現代史研究が世界的に何も進んでいないかのような、硬直した昔ながらのナチス像だけが屹立している点で、かなり異様である。それは、スウェーデンの断種法問題を議論する以上、当然視野に入ってきてもよいいくつかの研究領域の成果に無頓着でいることと、裏腹の関係にある。

現代史研究が進むアメリカ
 日本の視野から欠落している現代史研究の成果としては、たとえば次のようなものがある。まず第一に、1980年代に入って急速に進んだ、戦前の優生学史研究や医療・福祉政策の比較研究、現代医学史が、まるで受容・消化されていないことがある(そのほんの一部は拙書『遺伝管理社会』弘文堂、を参照のこと)。この時代、「優生学産業 eugenics industry」と揶揄されるほど、優生学関係の論文生産は活発であった。ブローベリ教授のスウェーデンの優生学史研究も、ここ20年ほどの研究史の一角をなすものである。
 第二に、主としてアメリカのユダヤ系大学で蓄積が進んでいるホロコースト研究がある。これは95年に起こった『マルコポーロ』誌の廃刊事件の内容も、またこの問題を扱った論議も表層的なものが多かったこと、あるいは同じ95年のアウシュビッツ解放50周年の記念行事についても、日本ではルポ的な記事しかなかったことと大いに関係がある。ユダヤ系研究者の研究動機には、ホロコーストの再来阻止という政治的意図があることを認めたとしても、現代史研究としての成果は無視すべきものではなく、最低限『アメリカ政治社会科学アカデミー』誌の特集号「ホロコースト――未来のための記憶」(96年11月号)などは念頭におくべきであろうし、なぜアメリカで冷戦後になってホロコースト博物館の建設が盛んであるのか、考えてみるのもよい。
 第三には、ヒトゲノム計画の進展がある。30億塩基対からなる人間の全DNAを解読しようとするヒトゲノム計画に初めて予算がついたのは、89年のアメリカであったから、生物学の研究領域では破格のこの巨大プロジェクトが動きだして、まる8年になる。人間の全DNAを解読してしまおうとする科学者の側の発案は、一部の人間にとっては、言い知れぬ不安や心理的抵抗がどうしても拭えない部分があった。そこで米連邦議会での審議の過程で、全研究費の3~5%をヒトゲノム研究にともなう倫理的・法的・社会的問題(ethical, legal, social issues :ELSI)の研究に割くことが決められていた。これはある意味で、研究の進展によって生じるかもしれない社会的危険を事前に認め、場合によっては研究にブレーキもかけうるフィードバック機構をあらかじめ装填したものとみなすこともできる。むろんこんな配慮は、科学史上、例のないことであった。こうして90年代も後半に入ると、ヒトゲノム研究に連動する社会的、倫理的問題の概容はほぼレビューしつくされた印象が広まった。そしてアメリカの研究者社会を中心に、当初懸念されていたヒトゲノム研究に固有の新規な倫理的課題には突き当らなかったという見解に収斂しつつある。激烈なバイオテクノロジーの批判者であったJ・リフキンが、情報社会批判へと転進したことは、象徴的な意味をもっている。このELSIプログラムによって、決して潤沢ではなかったバイオエシックス研究に破格の研究費が流れ込むことになり、その結果、英語文献のデータベース化が進み、優生学的議論や優生学史研究そのものについても、見通しの良い議論が可能になってきており、現時点で優生学問題を語る以上、この程度の研究動向は視野に入れておくべきだと思う。
 優生学とは結局、19世紀末から20世紀全般を貫いた、自然を科学技術を動員して改良しようとする広義の現代化(modernization)精神の一部として、必然的に繰り返し出現してきてしまうもの、と言ってよいのだろう。科学技術や括弧つきの「科学的思考」を、外部環境としての自然に対してではなく、遺伝物質や遺伝子という、内なる自然に向け、人間集団の改良もしくはその劣化を免れるための対応策のことである。しかし実際はもう少し複雑であった。応用遺伝学とも呼ばれ、政策志向的な色彩が強く、遺伝性ではなくても生得的にある種の障害をもっている人たちに対して、社会的コストを考えた公益上の理由で、大量の断種手術を行ってきた。この場合の優生学は、遺伝学とは無関係の社会的効率という科学性にたつ、公衆衛生学に隣接する疑似的な政策科学であったのである。
 ここで優生学を。20世紀を貫いた現代化精神の表出物として強調する理由は、ほかでもない、ナチズム=優生社会=巨悪という、広く流布している解釈図式からの脱却を意図しているからである。この解釈図式を天から信じているかぎり、優生学的言説のすべては前後無関係に、ナチス優生学を頂点とする悪の階位表のなかに回収されてしまい、優生学の歴史的分析や、ヒトゲノムの倫理問題の考察を冷静に行おうとする場合の障害にしかならないからである。このような偏向空間から脱出するいちばんの近道は、20世紀全体を通した優生学史の実像、ことに戦後の優生政策の実像を検証してみることであり、あわせてこの解釈図式がいつの時点で成立したのかを探ってみることであろう。

戦後にもち越された「科学的優生学」の時代
 ところで、この問題についてのスウェーデンでの論調は、世界に冠たる福祉国家を築きあげてきた社会民主労働党が、その成立期に策定した法律で、よりにもよって「劣った人間」や「ジプシー」(差別語であり、ロマ族とするのが普通)という理由で多数の断種手術を強行してきた事実を知り、衝撃を受けた、というものが多い。しかし、スウェーデンの歴史をひもとくと、1922年、ウプラサに世界最初の国立人種生物学研究所が設置されている。たとえば、この研究所(1956年に医学遺伝研究所へ改組)をどう解釈するかが、優生学解釈の分岐点になりうるのである。
 単純化していうと、優生学は、19世紀後半にヨーロッパ社会を覆った思想運動の一つの産物であった。それまでのキリスト教的世界観を拒否し、すべての価値を自然科学の成果に立脚して体系化しようとする、壮大な思想運動である。そのなかで優生学は、進化論と遺伝学を人間に応用しようとする立場であった。第一次世界大戦までは、この思想的変革はあくまで知識人社会の内部にとどまっていたが、第一次世界大戦によってそれまでの社会規範が大きく揺らいだ結果、この思想は社会のなかに大量に流入した。こうして1920年代には、多くの国でさまざまな優生政策が実施されるようになる。なかでもスウェーデンは、第一次大戦の当事国になることもなく、それ以前から現代化路線を突っ走り、北辺の農業国から一気に最先端の工業化社会に変貌することに成功していた。しかし、それにともなって出生率は世界最低水準にまで落ち込む結果になっていた。こうして、1932年に社会民主労働党政権が成立して福祉政策が採用されるなかでも、社会的効率という点で精神障害者の断種は当然のことと考えられるようになっていた。
 これらの議論の過程で、人種概念は科学的なものではないとか、本人の意思によらない強制的断種は個人生活への国家の過剰介入だ、とする意見は無視できない位置にあった。33年のナチス政権成立以降は、評判の悪いナチス人種政策への接近を危惧する声が繰り返し上がる一方で、アルコール中毒や放浪癖(‘ジプシー’を揶揄する別表現)は遺伝的性向だとする意見が多数を占めた。また北欧諸国は、ナチスが最優秀と喧伝した‘北方ゲルマン人’の故郷と信じられ、第二次世界大戦中にドイツに占領されたり衛星国化したことで、一時的にナチス人種政策の影響を色濃く受けることになったのである。
 ナチ党の正式名は「国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei」であり、一見、社会主義的な装いをまとっていた。しかし、それが実際にめざしたのは、アーリア=ゲルマン人を一人でも増やすために、全国民の個人生活・健康・出生を国家が管理することにあった。ヒトラーはこれを「人間の国有化 Sozialisierung der Menschen」と表現した。ナチ時代には遺伝的健康を守る目的で、少なく見積もっても第二次世界大戦までに30万人を断種し、戦争が始まると安楽死が主流になる。しかしその後も、7万5千人以上が断種されたから、合計で37万5千人、計算の上では全ドイツ人の0.5%が手術を受けたことになる。ヒトラー自身は、全ドイツ人の1%を断種する必要があると考えていた。
 ナチスの暴力的な人種主義は、世界中の悪評をかった。そしてこの時期、遺伝学者たちは自らが信じる優生学と、ナチスの人種政策とがいかに違うかを強調しようとした。1938年にエディンバラで開かれた第7回国際遺伝学会の折、「世界中の人間をいかに効率的に遺伝面で改善できるか」という質問が出たのを機に、遺伝学者のマラーが中心となって、「遺伝学者声明 Geneticists’ Manifesto」をまとめたのだが、この声明を出すことで遺伝学者の主流は、優生学の啓蒙を一時棚上げにする形をとった。
 声明はこう主張している。「かりに人間集団の遺伝的改善を考えたとしても、ただちに生物学の領域以外のおびただしい障害、たとえば、社会的な身分格差、人種的偏見、教育格差、産児調節のための意識改革、社会制度変革の難しさ、などにぶつかるのであり、現実社会では遺伝は小さな役割しか果たしていない」。この声明には、J・ホールデン、J・B・ハクスレー、J・ニーダムなど有力な遺伝学者が署名した。
 第二次大戦直後のナチズム解釈の文脈では、暴力的圧政とユダヤ人の大虐殺がその悪行の核心と考えられ、優生政策は非難の対象にならなかった。事実、ニュルンベルク裁判の訴追理由に優生政策は入っていないし、1945年に占領軍が設置した「非ナチ化委員会 Entnazifizierungskommission」が行った強制解除の対象に、ナチス断種法は含まれなかった。逆に悪名高いナチスが葬られたことで、いくつかの国では、戦後になって本格的な「科学的優生学」の時代が到来した。その例がほかならぬ日本である。

1970年前後の意味転換
 1940年に成立した日本の国民優生法は、確かに法律の構成上はナチス断種法に範をとったものではあったが、国会での抵抗が大きく、強制断種の条項は最後まで発動されなかったし、産めよ殖やせよの戦前・戦時にあっては、法の運用にも慎重であった。これに対して、48年に成立した優生保護法は、戦後、爆発的に増えたヤミ堕胎を合法化するために、優生学という‘科学的政策’を前面におし立て、これと抱き合わせて人工妊娠中絶を認知した、というのが実情に近かった。優生保護法には当初から、医師の申請による本人の意思によらない断種の条項が備わっており、対象は遺伝病から精神疾患や知的障害者へと広げられた。53年の厚生省通達には、優生保護審査会が決定した手術なら本人をだましてでも行ってよい、との見解が示されている。こうして、日本における断種手術の実施件数は、50年代にピークをむかえる。96年6月に優生関係の条項が削除され、母体保護法と改められるまで、合法的に行われた本人同意によらない断種は、1万6520件に達したのである。
 他の先進国も似たような状態にあった。
 ナチズムの再来を阻止するための封印作業として、48年に世界人権宣言が、50年に「人種に関するユネスコ声明」が採択される一方で、60年代のアメリカでは州法があるか否かに関係なく、精神障害者に対する強制断種は当然のことのように行われていた。たとえば、62年に、オハイオ州下級裁判所は、私生児を産んだ18歳の知的障害の女性に対して、通常の養育能力がなく、これ以上の妊娠は社会的負担を増やすだけたとの理由で、断種命令を下した。世界的にみると、断種手術を避妊の手段として最大限に活用したのはアメリカであった。たとえば、70年代前半だけで230万人の女性が不妊手術を受けている。このとき政府は一部で、避妊目的で補助金をつけたのだが、結果的に利用者が非白人女性に片寄っていたため、巧妙な人種差別政策ではないかと批判されるまでになった。この時期、知的障害者の断種の同意問題は、自己決定の原理にたつバイオエシックスにとっても、重要問題になっていた。
 しかし70年前後を境に、優生学という言葉は否定的な意味を帯びだしたらしい。このことを示す象徴的な出来事がある。アメリカ優生学会(American Eugenics Society)は72年に突然、名称を社会生物学会(Society for the Study of Social Biology)へと変更したのである。
 どうも、ナチス=優生社会=巨悪という図式は、60年代末ごろ成立したものらしい。57年のスプートニク・ショック以降、アメリカには理工学ぶーぶが到来し、続く60年代前半には、30年前のナチズムを忘れたかのような、無邪気で明るい優生学的提案が目白押し句になるのである。たとえば、62年に出版された『人間とその未来 Man and his Future』(チバ財団シンポジウム)がその例である。これを初めて本格的に批判したのが、遺伝学者J・レダーバーグである。彼は、「実験遺伝学と人類進化」(American Naturalist、1966年9/10月号)という論文を書き、そこで生化学研究と遺伝学の統合という表現で分子生物学の到来(この言葉はまだ一般的ではなかった)を指摘した上で、この段階での技術的応用という視点から、人間の遺伝的改造という発想の危険性を指摘したのである。
 そして無視できないのが、60年代前半の公民権運動である。それは、アメリカのアキレス腱であった黒人に対する人種差別の撤廃運動であったが、その成功のきっかけに、60年代後半には、他の社会的弱者の平等性の奪回へと、この時代の精神的覚醒は広がっていった。女性の平等性の奪回だけではなく、それまで運動という形をとって社会の表面にでることなど考えもしなかった障害者や同性愛者たちもが、社会的に対等な扱いを求める運動を開始した。こうして、人種差別や障害者問題と遺伝操作技術とを結びつけて論じる視点は、確実に準備されていったのである。
 60年代の末、ベトナム戦争反対運動と一環として、マサチューセッツ工科大学(MIT)で行われている軍事研究を阻止しようとする科学者とエンジニアの集団(SESPA)が、「科学者の社会的責任」論を議論し始めた。これに呼応したアメリカ東部の若手研究者は「人民のための科学 Science for the People」というグループを結成し、その批判の矛先を、当時急速に発展しつつあったバイオテクノロジーにも向け始めた。さらには69年以降、たて続けに、新たにIQの遺伝決定論を主張する、A・R・ジェンセン、R・ヘアンスタイン、H・J・アイセンクらの研究が発表されたことも、若手研究者が優生学への危機感をつのらせるきっかけになった。
 おりしも、73年8月にカリフォルニア大学バークレイ校で、第13回国際遺伝学会が開かれることになった。そこで批判的な研究者らは、スターリン時代にルイセンコ学説を批判したのを除いては、政治的問題はいっさい扱わないとする、この学会の大原則をうち破って、同じ場で、遺伝学と社会の問題をとりあげるよう執拗に働きかけたのである。こうして実現したのが、遺伝学者G・アレンによる異例の講演、「遺伝学、優生学、階級闘争 Genetics, eugenics and class struggle」(Genetics, Vol.79, p.29, 1975)であった。ここでアレンは、72年に出版されたばかりのK・ラドマラーの著書『遺伝学とアメリカ社会 Genetics and American Society』に依拠しながら、アメリカ優生学の歴史の本格的なレビューを行ったのである。それは、1924年に成立した、人種差別的な移民制限策である、絶対移民制限法(1890年の国勢調査の人種構成比に移民を割り当てる法律)を頂点とする、苦渋に満ちたアメリカ現代史の展望となった。このような実証的なアメリカの優生学史研究の開始は、その外側にある批判的な研究者にとっては、もっと凄惨なナチス優生政策の実態があったはずだ、という間接的なメッセージになったらしい。こうしてナチス優生政策は、この時代に「否定的に再発見された」と言ってよさそうなのである。しかしこの時点では、ヒトラーの優生政策や人種政策を列挙するにとどまらざるをえなかった。ナチス優生政策の実証研究が本格化するのは、80年代以降である。80年5月、ベルリンで開かれたドイツ保健学会は、それまでの重い重いタブーをうち破って、「ナチス医学、タブーの過去か不可避の伝統か」というシンポジウムを敢行した。これによって、その後の実証研究の突破口が開かれたのである。

『ナチス医学――タブーの過去か、不可避の伝統か? 1980』 

「未来世代への責任」というスローガン
 日本における優生学をめぐる論議は、このような世界的な次元での戦後精神史の陰影にまったく無頓着なまま、ナチス=優生社会=巨悪、という図式を当然のものとして受け入れてきている。そのため歴史の解釈をめぐって、ときには悲劇的なすれ違いが起こることにまる。たとえば『アゴラ』28号(83年6月)で、加藤シズエ(1897~2001)日本家族計画連盟会長が、女性編集者からインタビューを受けているが、そのなかで優生保護法が制定された経過を問われる場面がある。この時点ですでに86歳になっている加藤が、80年代の常識を無意識のうちにそのまま過去にさかのぼらせて質問してくる編集者に対して、「まったく新しい法律を作るのは困難なことだった」と、とり繕うように言葉をつないでいるのが痛々しい。普通選挙の実施後、初めての女性国会議員として、当時だれもが科学的政策と信じていた優生政策と抱き合わせて、人工妊娠中絶の自由化を実現させた加藤シズエに対して、もっと想像力を働かせた質問の仕方があったはずである。しかしだからと言って、この主観的には‘善意’の編集者を責めることは、また別の誤りを重ねることになる。
 繰り返しをいとわず言えば、アメリカの知識人は60年代以降、ドイツの知識人は80年代に入って、自らのつらい過去を検証し始めたのに対して、日本の知的セクターの内側には、本格的に着手すべきだとする問題意識すら共有されていない。文字としてはほとんど残らない、「消息」とも言うべき過去の価値体系を再構成することの重要性は、原一男監督の処女作、映画『さようならCP』(CP:Cerebral Palsy 脳性麻痺)をみれば、かなりはっきりみえてくる。72年制作のこの作品のなかで、主人公の一人は、障害者は一生隠れ住む分際であり、公衆に身を晒すことなどもってのほかという、なおこの時代の日本を重く覆っていた常識を破って、決然と雑踏のなかに分け入り、自分の詩を聞いてくれるよう訴えかけるのである。いきなり重度障害者に出くわしたとき、この時代の一般の日本人が示す緊張感は並みのものではない。高度経済成長末期の、経済的効率を至上価値とする一般の人間にとって、この主人公の出現は価値秩序の破壊者と映ったに違いない。だが、この一見突飛でひどく個人的な行動のなかに、社会的少数者が重い威圧的空気をおし破って、自らの存在を主張し始めるという、世界的な同時性を読みとることが可能である。
 さらに、いまの日本での議論の視野に入ってきてはいないのが、南北問題という側面である。たとえば、98年に北京で開かれる第18回国際遺伝学会のボイコット問題がある。中国は、95年の母子保健法によって、優生政策を進めようとしている。具体的には、結婚前に健康診断を求め、重い遺伝病因子をもっているとわかったカップルは、長期に避妊するか不妊手術を受けることに同意して、はじめて結婚できるという内容である。これを欧米の研究者は、繰り返し非難してきている。中国政府は、一人っ子政策と優生的配慮は国民の義務と考えており、その背景には戦後日本がおかれた厳しい経済状態と似た事情がある。いちおう国際学会に合わせて、遺伝学と社会を考える公開シンポジウムを開くことで妥協が成立している。だが最近の研究でも、中国の遺伝サービス関係者の90%は、遺伝カウンセリングの主たる目的は遺伝病遺伝子の集団内での頻度を下げること、と考えていることが明らかになっている(Clinical Genetics, Vol.52, p.106, 1997)。これこそが優生学的誘導だとして厳しく戒める、先進国の研究者との考え方の違いは、大きい。
 結論を急ぐと、遺伝情報を含めすべての医療情報は患者本人のものであり、専門職能集団は正確な情報を提供する側に徹し、決定すべては本人意思にゆだねられる、という形で問題整理が終わったのは、80年代を通してではなかったか。戦後期・前半を満たした現代化(近代化)精神にとって、優生学的観念との遭遇は、これを受け入れるにしろ危険視するにしろ、不可避のことであった。そして80年代を通して、ポスト近代へ駆け込むことができた先進国だけが辛うじて、優生学的強迫を相対化できる地点に達しえたのではないのか。ヒトゲノム計画の進展につれて、逆にDNA研究に対する緊張感が薄れたようにみえるのは、この解釈の正しさを示しているのではないのか。その意味で、歴史的視点からも南北問題の面からも、言い換えれば、通時的にも共時的にも、20世紀を貫く優生政策の実証研究と比較研究が不可欠の時点にきている。この文脈のなかで、日本の優生保護法の運用実態の研究がなされるのが理想であるが、むしろほとんど解明されていないのは、戦後の精神病・精神障害者の扱いの実態であろう。
 地球環境問題の領域でしばしば、「未来世代への責任」が力説される。しかしこの表現は、優生政策を駆使して人種主義的な千年王国を構想したヒトラーが強調したスローガンでもあった。われわれがただちに取り組まなくてはならないのは、「未来世代への責任」によって念頭に置かれる対象を、内なる自然としての観念的な遺伝概念から、外なる自然としての地球環境へと反転させることであり、その上で、この概念を使用することの正当性を、慎重なうえにも慎重に検証するという作業なのである。
 (『中央公論』1997年12月号、p.142~150)

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バイオエピステモロジー入門 その1 最深度の科学評論

社会生命科学研究室・科学史担当
 ふり返ると、私は人生の大半を、生命科学の最先端の研究活動のすぐ脇にいて、これをじっくり観察し考察をめぐらすのが仕事、というまたとない生活を送ったことになる。
 1971年~2010年の40年間存在した、三菱化学(旧三菱化成)生命科学研究所は、民間の実験研究所でありながら、スポンサーである三菱化学は、‘金は出すが口は出さない’という原則を貫いた稀有な研究組織であった。私は76年に、その特別研究部門のひとつ、社会生命科学研究室(中村桂子室長)に採用された。
 そもそもこの研究所は、東京大学理学部教授であった江上不二夫(1910~1982)博士に対して、1970年の夏、篠島秀雄(1910~1975)三菱化成社長が、初対面であるにもかかわらず、「自社の戦後再発足20周年事業の一環として社外に生命科学領域の基礎研究所を作ることを考えているが、その場合に所長を引き受けてもらえるか」と申し出たことが発端である(江上不二夫「めぐりあい 篠島秀雄さん」(『毎日新聞』1980年3月4日)。
 この時代、企業は利益しか考えないものというのが常識であった。だから、日本学術会議会長(1969年~72年)でもあった江上博士が、一民間企業の研究所長になるというのは、普通ならありえない破格の出来事であった。当時の学術会議は政府への批判色を強めており、加えて江上博士自身、オパーリン(1894~1980)と親しいためソ連寄りの左翼的な知識人と見なされ、長い間、アメリカの入国ビザが下りなかった。
 こんななか、東大教授職を投げうって民間の研究所長となる江上博士に対して、三菱化成の側は文字通り三顧の礼で迎えた。当然、研究所の構成とその運営について、江上初代所長の自由裁量にすべてを委ねた。こうして生命科学研究所は、江上構想に従って分子・細胞・個体・地球次元までの生命を対象とし、発足時には、発生生物学と脳神経生物学に焦点が合わせられた。

三菱化成生命科学研究所企画書 1970年

 私の感覚でもとくに70年代は、隅々にまで江上不二夫所長の精神がゆきわたっていた。たとえば、生命とは何かという基本的な問いを真摯に問う姿勢が共有されており、研究者の間でラジカルな質問を投げかけあうことはたいへん好ましいことという共通了解があった。事実、科学史担当の私がふらりとある研究室を覗いて、ひどく素人っぽい疑問を口にすると、恐ろしく優秀な先輩や同僚たちはみな待ってましたとばかり、最先端の研究状況を簡潔にまとめた上で、その問いに正確かつ丁寧に答えてくれたのである。
 こんなに贅沢な時間を、私は、好きな時に好きなだけ持つことができた。なぜ、こんな特権が私には与えられたのだろ? いま考えると、どうもこのポストは、この稀有な研究所の中で自ずと生命科学の認識論的課題に関心を向けるよう、意図的に設計されたものではなかったかとすら思う。

 とは言え、眼前で日夜、精力的に展開される生命科学研究を系統的懐疑の煉獄に投げ込むだけのエネルギーを、私は持たなかった。これは、
http://yonemoto.blog/mechanism-vs-vitalism/465.html
にも書いたことなのだが、転機は私が還暦を迎えたことだった。

 他の人の目には、私は生命倫理や地球環境問題の領域でそれなりの成果を収めたものと映るかもしれない。だが2006年7月、職場の若い仲間から「所長、還暦おめでとございます」とお祝いを受け取った瞬間、私は底なしの死の恐怖に引きずり込まれた。本当にやりたいことにはまだ何も手をつけていなかったことに、突然気がついたのである。いま死ぬのは嫌だ、と切実に思った。
 私には、自分の考えていることは簡単には他人に伝わらないものと、あらかじめ断念してしまう悪い癖がある。これを、自分の考えなど無暗に口にするものではない、と正当化していた。だから、本当に言いたいことは文章にしてはおらず、息がつまるほど狼狽えた。
 残りの人生を逆算する地点に至って、30年前、私がいまの職を得たのを機に棚上げにしてきた問題に、何らかの決着をつけなくては、死にきれない状態に陥った。そこでできれば、この問題を誰か若い人に引き受けてもらいたい、と思った。
 言うまでもなく、その課題とは、私が学生時代に出くわした、分子生物学を正面に据えて「機械論 vs 生気論」論争の実像全体を明らかにすることである。このテーマは、生命科学研究所の研究者として取り組んでもおかしくはないものであった。しかし、かりに手がけたとしても、たいへん不満足な結果にしかならかっただろう。

 私はまず、H.ドリーシュの『生気論の歴史と理論 The History and Theory of Vitalism』(1914)と『個体性の問題 Problem of Individuality』(1914)を訳出し、長めの解説をつけて出版した。
 だが、この程度の手法で問題の在りかをほのめかしてみても、誰も振り向かなかった。考えてみればそれは当たり前のことで、私にしか見えない山は私が登ってみせるより他ないのだ。
 そう心を決めが、60歳台半ばから、現行の生命科学者が無意識に立脚しいる生命観(私の言う‘薄い機械論’)を可視化させる作業を少しずつ進めてきた。ところが、三作目の『ニュートン主義の罠―—バイオエピステモロジーⅡ』(書籍工房早山、2017)の半ばあたりから、私が示そうとしているテーマは、予想していたものよりもはるかに大きなものではないか、と思いはじめた。早い話が、当初の構想に従って、過去100年間における「機械論 vs 生気論」論争の資料を精密に読み込んでいくと、この二項対立図式を含め、だとえばこの領域の議論の定番である有機体論やシステム論の枠組みを、簡単に突き抜けてしまうのである。

最深度の科学評論を
 このことは、現行の生命科学研究に対する距離感と関わってくる。
 生命科学研究所は2010年に解体され、町田市南大谷の地にいまその面影はない。だがその跡にたたずむと、消え去ったあの白い研究棟こそ、20世紀生命科学の生命観が‘物象化’したものであることを改めて納得できる。あの知的空間が追憶のなかに繰り込まれ整序されることで、初めて私は、20世紀生命観を概念分析の対象に据えることができた。20世紀生命観を客体化するだけの距離感を獲得したのである。
 ここで、これからの長い長い議論のために、‘最深度の科学評論’について述べておきたい。
 ‘最深度の科学評論’とは、既存の科学論・科学史・科学哲学が無自覚に拠って立つ科学への接し方とは異なり、自然科学、とくに生命科学に対して、徹底的に批判的な眼差しを向ける立場である。
 概して、これまでの科学論・科学史・科学哲学は、19世紀の自然科学思想の直系に位置し、広義の科学啓蒙の範疇の内にある。科学は、宗教・迷信・邪説に抗して真理を追究し、人類を迷妄から救い出し続ける精神的営為であり、発展過程では紆余曲折はあったものの、いまある自然科学には欠陥はない、というのが暗黙の前提にある。
 これに対して‘最深度の科学評論’は、自然科学が人類の偉大な成果であることは認めながらも、同時に、研究活動も人間が行うものである以上、そこに欠陥が含まれているのは自然であると考える。
 それはちょうど、大学文学部の研究者が、文学作品についてあらゆる角度から分析と考察を重ね、ときには作家の個人的経歴や精神状態にまで踏み込んで論評する作業に似ている。精神活動の産物という点では小説も科学も同格のものとみなして、文学研究と同等の冷徹な眼を自然科学にも向ける。
 文学研究と、現在の科学論・科学史・科学哲学との対比は、たいへんに示唆的で、かつ有益である。
 作家は上梓後の作品について語ることは控えるものであり、作家自身による売り込みや自賛は品のない行為である。むろん作品の評価は、評論家や最終的には読者に委ねられる。
 だが科学の場合、科学者が科学を社会に向かって啓蒙し売り込む一方、文学作品に当たる学術論文を科学者ではない第三者が読み込んで、これに論評を加えることはまずない。その理由は、専門教育を受けていない人間が学術論文を読んで理解することは困難だと広く信じられ、現実的にも多分にそうだからである。
 普通、この構造的な断絶が問題視されることはない。だがこの専門論文読解能力の非対称性こそが科学者集団とその外部とを隔てる壁であり、‘最深度の科学評論’を行おうとする以上、何としてでもこの障壁は突破しなくてはならない。
 確かに専門論文を読むのは難しい。だが専門論文の実体は、記載内容の正確さを確保するために厳格に定義された専門用語が用いられ、併せて、表現の節約の目的で略表記が多用されているのに過ぎない。端から難しいと感じてしまうのだが、それは読み手の能力が劣っていくからではない。専門用語に未習熟で、略号表記に慣れていないだけなのだ。
 これらのジャーゴンや表記に慣れ、忍耐強く読み込んでいけば、概要はおのずと把握できるし(論文冒頭のサマリーは要約の程度が強すぎて、かえってわかりにくい場合がある)、なじみのない専門用語や表記についてはインターネットで検索すれば、大半の内容は推測でき、本筋は読み取れるはずであある。
 自然科学そのものがもうかなり以前に専門分化が極端に進んでしまっており、個々の科学者が理解可能な領域は著しく狭くなっている。専門研究者にとっても、外部から‘最深度の科学評論’を行おうとする者にとっても、論文解読の際の煩わしさともどかしさは、同じようなものなのだ。
 専門分野の細分化と隔離状態を打破するため、さまざまな水準のレビュー誌が出版されている(Nature Reviews シリーズが代表例)。また主要な専門誌も、伝統的な総説論文に加え、直近の話題や重要課題に焦点を絞った、‘ミニレビュー’、‘インサイト’、‘パースペクティブ’などの評論欄を設け、効率的な把握のために改善を重ねてきている。これらの多段階のレビュー作業の成果を活用すれば、部外者が専門論文を読み込むことは、実はそれほど難しいことではない。これまで、‘最深度の科学評論’が行われてこなかったのは、眼前にそびえる自然科学の壮大さに圧倒されて、これを総体として批判し論評ようとするだけの意欲を持たなかったからである。
 
 これまでの科学論・科学史・科学哲学が科学啓蒙からはずれることができない理由の一つに、自然科学が、19世紀には進化論を中心にキリスト教と対峙し、20世紀にはナチズムやソ連共産主義など政治イデオロギーによる介入と戦ってきた歴史を、共通の記憶として刻んでいることがある。
 これ以上は論じないが、自然科学がこのような宗教やイデオロギー的な介入に抗して、みずから真理の守護者として戦ってきた伝統の上にあることは、‘最深度の科学評論’として自然科学に向けて系統的懐疑をかける作業に、思想的・倫理的な抵抗を引き起こしてしまう外部条件が控えていることは、念頭に置いておかなくてはならない。
 「バイオエピステモロジー」の名の下で、自然科学の‘瑕疵問題’を論じ、現行生命科学の認識のあり方を‘統合失調症’的と表現していくが、このような語り方は、現行の科学論一般とは沿わないものである。‘反科学的’とする反発が出てくるのは確実であろう。  (つづく)

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ウィキペディア被害者同盟を!

 日本語版ウィキペディアを、私がぜんぜん信用しなくなった事情を書いておこうと思う。 続きを読む

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今はいない、無二の友

 思いたって、今日(2017年11月5日)、今は無き、無二の友のお墓参りをしてきた。11月6日は彼の七回忌である。 続きを読む

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1900年の懸賞問題——社会ダーウィニズム、一つの頂点

 名前ばかり有名で、ほとんど研究されてきてはいない歴史的な対象がいくつかある。とくに日本の知的社会は、このような研究の‟空洞”をいくつか抱えている。
 その代表例が‟社会ダーウィニズム”である。 続きを読む

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第1回ドイツ社会学者会議(1910年)における、A・プレッツに対するM・ウェーバーの反対意見

 40年ほど前、社会思想史学会で、有名教授に怒鳴りつけられた事情をこのブログに書きとめたら、少なくない方々の興味を引いたようである。
 誤解のないよう改めて強調しておくが、私はこの教授を非難するつもりなぞ毛頭ないことである。
 氏の怒りは、正真正銘本物であった。それは、戦後日本の良心的知識人が強く抱いた信念体系そのものであった。 続きを読む

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東大教授の恫喝——優生学史研究を始めたころ

 今は、優生学史の研究をすると言っても誰も怪しまない。ましてや、それを危険視することなど絶対にない。だが1970年代末は、事態はまったく違っていた。
 数年前、ある大学の学位請求論文に、優生学史研究が提出され、審査員を依頼された。内容的にはじゅうぶんで何の問題もなかった。だが、この分野からしばらく遠ざかっていた私には、清々と優生学史が論じられ、議論が進んでいく雰囲気に、違和感を隠せなかった。私がドイツ優生学史を始めた当時、このような研究はナチス復活につながる危険な兆候と糾弾され、それに必死に抵抗した。そのことが、鮮やかによみがえってきたのである。 続きを読む

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商品としての研究——不便なところに商機あり

京都大学人文科学研究所で開かれた、「生物学史夏の学校」の今年のテーマが「オープンサイエンス」であったので、9月23日(土)だけ参加した。ただし現在の日本では、オープンサイエンスという概念は、まだまだ生煮えの状態にあると思う。それにつけても、いまから12年前に書いた「商品としての研究」という記事を配布して、もっと積極的に議論に加わるべきであった。反省することしきりである。
そこで、この記事を少し修正して再録しておく。

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