自跋:『ニュートン主義の罠——バイオエピステモロジーⅡ』

 とくに見通しがあって書き始めたわけではないのだが、今回(2017年8月)、『ニュートン主義の罠——バイオエピステモロジーⅡ』(書籍工房早山)を出したことで、『バイオエピステモロジー』(2015年8月、同)、『時間と生命』(2010年9月、同)の“バイオエピステモロジー三部作”をまとめることができた。 もう一冊、わかりやすい集成版を書いてみたいと思っている。
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E・ヘッケルの評価と位置づけ——生物世界の解釈革命

進化論的世界像を構築し、提供し続けること

 現在の生命科学は、生化学の上に展開している。詳細は省くが、そう断言してよい。そして、この光景は「生命は物理・化学によって説明される」という‟機械論”が、現代の生命科学の基盤を形成し、不動の地位を占めていることを意味する。
 この次元の問題を考察の対象とする学問的立場、もしくは、自然に対する科学が拠って立つ認識の形を問題にする立場を、ここでは「自然哲学」と呼ぶことにする。当然、現在の生命科学が立脚するのは、ある特徴をもった機械論である。そして、このの機械論の源をたどっていくと、19世紀ドイツ生物学における機械論(Mechanismus)に行きあたる。 続きを読む

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孤高の人——今西錦司

私が、俗にいう‘今西進化論’の信奉者だと思っている人が意外に多いことに、最近、気がついた。そもそも、今西錦司氏ご本人ですら、ダーウィンの自然選択説を認めないからと言って、ご自分が独自の進化論を主張したとは、あまり思っておられなかったのではないか。 続きを読む

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ブログ再開

 5年間、ブログを放置していたが、再開する。

 理由はたくさんある。一つは、最近、ネットサーフィンをしていて迷い込んだついでに、facebook を始めたのだが、意外にこれが窮屈な感じだったからである。なかでも「友達」という概念を強制され、判別させられることが苦痛である。

 『論語』の、「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」という一節が、文字通り、腑に落ちるようになった。書きたいことがわき上がってきたら、すぐに文章にしてしまおうと思う。寝床の横にパソコンがあるいまは、ほんとうに理想的である。

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『「いのちの思想」を掘り起こす』;低迷する日本の生命倫理研究

 岩波書店の月報『図書』2012年2月号に、宗教学の第一人者である島薗進・東大教授が「いのちの痛みからの問い――日本の「生命倫理」の魁群像」というエッセイを書いている。島薗教授はそのなかでこう述懐している。

「思えば私自身、1967年に大学教養学部の医学部進学過程に入学したが、3年後、医学部進学をやめ、文学部の宗教学科へと大きな進路変更をした。その折に私が現代医療、現代医学に感じた疑問は何だったのか。30年後に生命倫理に取り組むようになってたびたび、1970年前後に考えようとしたことが再びよみがえるように感じられた。そして、2011年3月11日の福島原発災害は、私を今一度、もっと激しく1970年前後へと引き戻した。・・・・・・生命倫理の問題も原発による安全や環境汚染の問題も、科学技術が引き起こす「いのちの侵害」に関っている。そしてそれらの「いのちの侵害」に対峙する日本の「いのちの思想」は、1970年前後にひときわ鋭い高揚の時期をもったようだ。 続きを読む

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皇室と男女産み分け

 政府は、女性宮家の創設に関して、年明けから有識者に対してヒアリングを行う、と発表した。
 2005年11月、小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は、女性天皇(女性皇族による皇位継承)と、女系天皇(父親が皇室の血筋に属さない天皇)も認めるべき、とする報告書をまとめた。この報告書は、40年近く皇室には内親王(皇室用語で女子)しか誕生されなかったからなのだが、06年に秋篠宮家に悠仁親王が誕生され、皇室典範の改正問題は先送りとなった。 続きを読む

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なぜ、ブログか

 恥ずかしながら、ブログを始めることにした。
 理由は、要約すると二つになる。
 一つは、これまで活字にしてきたこと、もしくは活字にできた内容とは異なったものを、誰かに向かって言いたくなったからである。このことは、活字・メディアにはある種のスクリーニングがかかっていることを意味する。考えてみれば、それは当然で、これらには社会的媒体として責任があるからである。だとすれば、私にとって、ブログはおあつらえ向きの手段ということになる。 続きを読む

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